白や黄色、橙色、赤。様々な色の明かりが灯ったり点滅したりしている星雲みたいな高層ビル群の合間。肩身が狭そうに広がる薄紫の夜空に、ベツレヘムの星の如く一際輝く星が見える。
デネブ、アルタイル、アークトゥルス。頭に浮かんだどこかで聞いたような名前を順に並べて当てはめようとも、そもそも正解が解らないし、調べようがない。
慣れない9cmのハイヒールを長時間履くストレスを避けるため、往き帰り用のローヒールパンプスを用意するような手段や、いわゆる華やかな場に自然に溶け込めるような服の選び方はいつの間にか覚えた癖に、世の中はまだまだ私の知らない事で溢れかえっている。
或いは、知っていたのに忘れてしまっているのかも。その可能性も否定はできない。
夏が近いのに夜になるとやや肌寒い。単に季節のせいではなく、着ているのがチュールとレースで構成されたいわゆるパーティードレスだからというのもあるが。
私は余所見をしながら歩いているうちにいつの間にか肩からずり落ちていたラメの入ったショールを掛け直し、胸の前できゅっとひとつに結ぶ。
すると、どうやらそれに気づいたらしい。私の数歩先を欠伸しながらゆらゆら歩いていたライアンは歩みを止め、こちらを振り返った。
「寒い?」
「ちょっと。でも大丈夫」
別に強がっているわけでも遠慮をしているわけでもなく、ただ思った事を口にしただけ。なのに、彼は何やら考えるように、やたらに真面目くさった表情をしている。
それは今宵の主役だった男が帰り道に浮かべるにしては硬く、ぎこちない。
ベガ、シリウス、ベテルギウス。依然としてぽんぽんと頭に湧いては泡のように消えゆく名前たち。
意味のないそれらと彼のミスマッチな表情を内心面白がっていると、建物を出てすぐに脱ぎ捨てたハイヒールとクラッチバックが雑に詰め込まれた袋を持つ私の左手は緩く引っ張られ、あれよという間に空になったかと思えば、隙間を埋めるようにして彼の右腕が絡んできた。
距離がほぼゼロになった瞬間、少し気の早い夏みたいな香りが鼻腔を擽る。
彼の取った行動の強引さにいつもの調子で「危ないでしょ」と文句のひとつふたつ、おまけにみっつくらい言おうかと口を開きかけたが、声が出る寸前で今日が何の日かを思い出して、匂いと共に飲み込む。
こういうのも偶には良いだろう。そう、1年に一度くらいならば。
彼曰く“厳しい”私にだって、恋人の誕生日を祝いたい気持ちは持ち合わせているのだ。
ライアンの誕生祝いを兼ねた企業主催のパーティーが終わった後、会場から少し離れた通りで合流した私たちは、彼の提案で車もタクシーも使わずそのまま歩いて家まで帰ることにした。
自分の顔を売るのが仕事のひとつであるライアンはともかく、私はあまりそういう場に顔を出すことに慣れていない。その上主賓との関係を公にしていないので会場では必然的にひとりで行動することになる。酷く退屈な時間だ。
普段ならば彼に誘われても絶対に断るのだが、今夜は何せ普通の夜ではなく『誕生日』という魔法のキーワードが付いている。だから我ながら珍しく誘いに乗ることにしたのだ。
しかし、現実はやはり私の想像した通りのことしか起こらなかった。
壁の花なんていう外面だけは良い言葉には到底あてはめられない。カメレオンのように息をひそめて時間が過ぎるのを待つだけ。
会場には暇つぶしがてら雑談するような知り合いもいない。当然、常に誰かしらに囲まれている彼と話なんてできるはずもない。
文字通り、ただ行って息をするのみ。だというのに、宴が終わる頃には見事に心身ともに疲れ切っていた。
靴を履き替えたとは言え数時間ほぼ立ちっぱなしだったので足は棒のようだ。時間も23時を回っており、1秒ごとに明日が近づく。正直、今すぐにでも帰って寝たかった。
だが、彼の提案を聞いたとき、なぜか私は「それも悪くないな」と感じてしまい、今に至る。
疲れすぎて脳がエラーを起こしたからか。魔法のワードにかこつけてか。はたまた、心当たりがあるような、でも言葉にするには気恥ずかしいような、別の理由か。
どれが当てはまるのかは星の名と同様、これについては推測することしか出来ない。
「今日は星がよく見える」
それは多分、気のせいなのだが。
でも、だったらいいな、という気持ちを90%くらい込めて私が呟く。なにせ、今日は年に一度の夜だから。そんな宇宙規模の奇跡が起こってくれても良いのに、と。
幾ら大きな通りといえど、こんな時間に歩いている人間なんて私たち以外に居やしない。一方で車は途切れることがなく、スポットライトを当てるようにふたりを照らすが、流れ星と同じくらいの速さで消えていく。
相変わらず歩道のど真ん中で立ち止まったまま、ライアンは私の視線を辿った先にある空を見てから、「……そう?」と首を傾げた。
「俺にはよくわかんねえわ」
「そうだろうね」
だって本当の所は、私にもわからないから。
右を向いたり左を向いたり。頭の上にクエスチョンマークを浮かべて空を訝し気に睨む彼に心の中で告げて、試しに自分の腕に少し力を込めてみる。
上質なジャケットとドレスシャツのおかげでさほど暖かさは感じない。“使う筋肉”を纏う腕は正直、抱き心地も良いとは言えない。
それでも私の行動に対し、少し驚いた顔を浮かべる彼の居る景色だけで、今の私の心は表面張力限界まで満たされていた。
「……ちゃん、歩き辛くない?」
「自分から腕を組んでおいてその発言は無くない?」
「それもそうか」
痛いところをつかれたという顔でライアンが笑う。まるで悪戯がばれた子供みたいに。
そしてそれ以上は何も言わず、さっきよりも更に近くなった距離を保ちながら再び歩き始めた。
子供っぽい。と、今私が感じたまま言うと、きっと彼は怒るのだろう。でも、つい1時間くらい前まで多くの人々やカメラに向かって振りまいていた気取った笑顔とは違う。
これは星空や私の選択の根拠とは異なり、自信を持ってはっきりと言える事だった。
子供っぽい。
今しがた浮かんだ言葉を頭の中で繰り返す。
じゃあ、彼が子供っぽいのならば反対に、大人っぽいとはどういうことなのか。やはり感じてしまう歩き辛さを紛らわせるため、試しに普段は絶対考えないようなことを考えてみる。
彼に頭の中で子供っぽいと言っておきながら、私自身も決して大人っぽいとは言い切れない。
が、私も彼も今居るシュテルンビルトの法律的には立派な大人で、私の生まれた場所でも彼の生まれた場所でも、前に居た場所でも1,2歳程度の誤差はあれど同じだった。
もし、この世の人間を大人と子供の二種類に分類するならば、圧倒的に大人の数の方が多くなる。
大人と一言に言ってもその幅は実に広く、当事者でありながらも、自分より先輩の大人の事に関してはまだよくわからない。なんとなく、自分の人間性については今まで同様、この先も変わらない気がするが。
思えば、自分が子供の頃に思い描いていた大人と、実際自分が大人と呼ばれるようになってから思う大人とでは、随分とそのイメージは離れてしまっている。
子供の頃、大人はもっと難しいことをたくさん知っていて、何でも持っていて、簡単なことでは泣かないと思っていた。
でも現実は違う。色んなことを覚えないといけない分、子供の頃に知っていたはずのことはどんどん忘れていくし、どんなに欲しくても手に入らない物もあるし、良い映画を見れば簡単に泣く。
何も子供の頃と変わらないのだ。だって、子供も大人も自分は自分。地続きだから。ゆえに私は自分のことも大人だとは言い切れないのであろう。
それならば、彼に宛がった子供っぽいという言葉はもしかすると、大人っぽさと紙一重ということにはならないか。紙一重とまで言ってしまうのは、少し大げさにも思えるが。
そのような、考えれば考えるほど出口が見えなくなることを考えながら歩いていると、彼は上の空になっていた私に「どうした?やっぱ歩き辛くねぇ?」と尋ねた。
けれども尋ねたわりに、その腕は放そうとしないところに、彼の信念のようなものを感じてしまう。
そっちがそのつもりならば。半ば意地になって私も決して離すまいと絡んだ腕に体を寄せれば、彼は何かを感じ取ったようで、くつくつと笑った。
「子供の頃、大人ってもっと大人だと思ってたなって。考えてた」
ふたりの脇を大きなトラックが通り過ぎていったあと、歩くたびにロングドレスの裾からちらちら見える靴のつま先を眺めながらぽつりと告げる。
独り言くらいの大きさの声も、これだけ近づいていればひとりだろうとふたりだろうと同じことかもしれない。
横目で彼の横顔を盗み見る。夜の街中でも澄んだ輝きを放つ瞳は、例の星のあたりを睨んでいたが、私の視線に気付くと腕と同じくしっかり絡ませ、微かに目を細めた。
「あー、わかる。なんかガキの頃もっと大人って色々知ってるもんだと思ってたわ」
「ね」
「実際なってみると全っ然そんなことねーの。何も変わんない」
「その通りなんだけど、今日誕生日の人が言うと笑える」
「童心を忘れないピュアな大人のお手本だろ?」
「な?」とライアンは少し首をかしげて笑う。
得意気でいて、ほんの少しだけ愚かさを感じてしまうその表情はまさに大人の中の子供代表と言ったところだろう。
つられて笑い声をあげた私を見て、ライアンは続けた。
「でも、大人になっても楽しいって思える事が無くならないってのは最高だよな」
今にも鼻歌でも歌いだしそうなほどの上機嫌な声だった。
さすがは大人の中の子供。ひどくポジティブとしか言いようのないその発言を受けて、子供にも大人にもなり切れていない中途半端な私は、彼のことが急に眩しく見えてくる。
やけに明るく見えるあの星と同じくらい。いいや、視界の端で笑う月くらい。或いはそれら以上に。
なんにせよ、怖いほどに心惹かれてしまうのだ。
多分これは私が子供でも、大人でも同じこと。今までも、これからも。
「今日のパーティーは楽しかった?」
体を寄せ合って歩くのにもすっかり慣れてきた私は、彼に尋ねる。
気が付けば会場から随分と歩いていたようだ。途方もない道のりに思えたが、ゴールは近い。数ブロック先に目的地である家が見えた。同時に、私の心にぽっと浮かんだ感情が安堵の類ではなく、寂しさに似た物だったという事実はライアンには内緒にしておこうと、密かに心に決めた。
「楽しかった。けど、」
「けど?」
ライアンのやや含んだ言い方に私は眉を寄せる。一体彼は何と続けるつもりなのか。疑問を視線に乗せ、街灯の下で眩しく輝く彼を見上げる。
彼はごく自然な減速の後、歩みを止め、あんなに頑なに絡ませていた腕をいとも簡単に解き、そのままそっと私の頬に手を添えた。
ゼロだった距離は10か20か、その位になる。あの星々の居る宇宙規模で見れば、これも誤差にすらならないのだが。
透き通る瞳に捉えられ、五月蠅くなる鼓動を誤魔化すように、必死に頭を働かせる。今、このときどんな顔をするのが正解なのか。笑っておく?怒ってみる?どうしよう、決められない。そうこうしている間に、彼の長い親指がつうと、ルージュがほぼ取れかけたむき出しの私の唇を撫でていく。
「その比じゃないくらい、今が最高に楽しい」
一瞬、見えたかもしれない彼の確信に満ちた表情。それをじっくり堪能する間も無く、親指のあった場所に唇が寄せられた。
程よい間の後、私の目の前に現れた笑顔。唇に淡く残る感触。それらを私に与えた、今日歳を一つ重ねた彼は紛れもなく、子供みたいな大人だ。
「……ライアン。誕生日、おめでとう」
照れ隠しに改めて告げた祝福の言葉に「おう」と答えると、彼はすでにこぼれそうな笑顔を更に滲ませる。
遠くで輝いていたはずの星は、今私の目の前で眩しく光っていた。