雨は嫌いだと彼は言った。しかし、哀しくなる程に似合うと思った。
そろそろ梅雨の終わりが見えて来ても良い頃だった。昼間気まぐれに顔を見せた太陽が作り出した蒸し暑さは何処へやら。今朝の天気予報通り、1時間程前から降り始めた雨は熱気諸共全てを洗い流してしまったらしい。最終下校時刻が目前に迫った薄暗い昇降口で、少しの肌寒さを感じながら靴を履き替えている時、私は初めて教室に折り畳み傘を忘れてきた事に気が付いた。しまった。ばたんと大きな音を立てて下駄箱を閉め、他の誰でもない自分の失態に顔を顰めながら来た道を戻る。すっかり下校モードに切り替わっていた先程までとは打って変わって、足取り重く、教室までの道のりが果てしない物のように感じられる。途中、部活帰りと思われるクラスメイトとすれ違ったが、「ちゃん、まだ帰らないの?」「教室に傘忘れて」「ああ」というやりとりをする事で、私の中の自己を嫌悪する気持ちは一層むくむくと膨らんだ。悉くツイていない。そもそも、これほどまで帰りが遅くなった原因を作り出した一つ上の幼馴染の事を思うと更に怒りが込み上げてくる。「どうせ暇でしょ」だの「元気が有り余っているならいい仕事があるよ」だの、適当な理由を付けていっつも生徒会の仕事を押し付けて。まあ、今日こそは断ろうと息巻いていても、結局良いように言いくるめられてしまう私も私だけど。いや、それにしても、だ。誰も見ていないのを良いことに、怒りをぶつけるように階段を昇って教室のある三階の廊下へと出る。ここまで来ると昇降口とは違い、もう殆ど人気は無い。反対の渡り廊下の方から吹き抜ける風に、急に背筋がすっと寒くなり、自ずと歩みが早まる。蹴る度にきゅっきゅと鳴る廊下の音がやけに響いて耳障りだと思いながら進んでいると、程なくして突き当りの窓際に細長い影を見つけた。
一瞬、人では無い物に出会ってしまったかもしれない、と思ってしまった。“彼”は余りにもその風景に馴染んでいたから。
月の表面を思わせる冷たい色の髪。そこから覗く刃物のような目。青白い肌。
私が立てる気の抜けた足音も、先程よりも強くなった雨音も、その耳には届いていない気がする。濡れそぼるグランドに面した窓を、微動だにせず難しい顔をして見つめているその姿に、私は大いに見覚えがあった。
「…石田、くん?」
恐る恐る私が声を掛けると、彼はゆっくりと窓から私へと視線を移す。
何だか、彼の周りだけ時間の流れが緩やかになっているかのように感じた。
「………」
しまった。と、数分ぶりに私は思う。咄嗟に声を掛けたは良いが、何を話すべきかまでは考えていなかった。何をしているんだ私は。目に入った物の名前を次々に挙げていく、言葉を覚えたての幼児じゃあるまいし。いや、それよりも共通の話題。私と彼との共通の話題。何か、何でも良い。頭をフル回転させる私を尻目に、彼は「何だ?」と涼しい顔で尋ねた。
私が彼、石田三成について知っている事と言えば、“ふたつ隣のクラスに居る、自分の幼馴染である半兵衛が可愛がっている後輩”という事に尽きる。いつだったか、今日のように不本意ながら生徒会に出入りしている時、半兵衛から簡単に紹介された事ははっきりと覚えている。しかし紹介され、お互いに(私が一方的に、かもしれないが)認知をした所で、1年生の時からクラスも選択科目も部活も違う私達は特に接点を持つ事無く今まで過ごしてきた。私はともかく、彼は見るからに雑談を好むタイプでは無い。過去に会話を交わしたことも無い事は無いが、それは半兵衛からの頼まれ事に関する物である事が殆どだった。だから、うっかり声を掛けてしまったことに対して全力で後悔せざるを得ない。どうして声を掛けてしまったんだろう。いや、でもこの状況で何も言わずに通り過ぎるのもそれはそれで不自然だったのでは?知った顔だし、ふたりきりだし?それはそうだけど。頭の中で繰り返される出口の無い論争に息苦しさを覚えつつ、私はとりあえず何か言わねば、と口を開く。
「あっ……ごめん。何か、邪魔しちゃった?かな?」
「いや、」
構わない。言って、石田くんは再び視線を窓の外へ泳がせる。薄暗い窓に映し出された自分の顔は変に歪み、何だか酷く情けなく思えた。
「何を見てたの?」
他人以上友人未満。奇妙な関係のふたりの視線の先には絶え間なく降り注ぐ雨。その先にあるのは、グランドを横切りながら自分達より先に帰路につく生徒達が数人。しかし、ライトで照らされているとは言え外は薄暗く、三階から誰が誰かを判別するのは難しい。よって、石田くんはきっと誰かを見ていたのではなく、“何か”を見ているのだろう。勝手に判断した私がそんな風に尋ねると、彼は切れ長の目を少しだけ丸くした。
「……雨を……」
「……。そっか、」
そうだよね。よく降るよね。梅雨明けまだかな。でも明けた途端に暑くなるんだろうな。それはちょっと嫌だよね。精一杯の、当たり障りの無さそうな事を答えると、再び沈黙が訪れる。やがて、石田くんはこくりと一度頷いた。そして、
「雨は嫌いだ」
血色が決して良いとは言えない唇から、石田くんは言葉を紡ぐ。それは哀しそうに。でも、何か大事な物を慈しむように。或いは――どんな風にも取れた。彼の事を知っているからではない。その逆で、私は彼の事を何も知らないから、どんな風にも取れたのだ。きっと。半兵衛の後輩の男の子。知ってるのは、それだけ。だから、彼の言葉に対して何も返す言葉が見つからず、ただ最終下校時刻を告げるチャイムの音を聞きながら「うん」と小さく頷く事しか出来なかった。
もし、知っていたら、何と返したのだろう。
もし、彼の事をもっと知っていたら、何て。
もし、彼ともっと近い所から雨を見られたら。
辺りの景色が、水彩絵の具に水を落としたときみたいにぐにゃりと滲む。その景色の中で見た石田くんは、皮肉なことに、とても雨が似合うと思った。
〇
「おい、」
「……あ?」
知らぬ間に眠りに落ちていたらしい。ドサッと乱暴に投げられたタオルケットの重みと、すっかり聞き慣れた不機嫌そうな声に目を覚ます。
まだ輪郭のはっきりとしない意識を拭い去る様に、ごしごし目を擦りながらソファに沈めていた上体を起こすと、洗濯籠を両手に抱えた三成の姿が目に入った。
「昼寝をするなら何か掛けろと何度言わせる」
「……ごめん、ちょっと横になっただけで寝るつもりはなかったの」
「その言い訳は聞き飽きた」
「私もその文句は聞き飽きた」
「貴様」
ぴくり。三成の眉が揺れる。ああ、まずい。苦笑して顔の前に両手を合わせ「ごめんごめん」と軽く謝罪をする。こんなやり取りにもすっかり慣れたものだった。込み上げてくる正体不明の笑いをぐっと堪えながらへこへこ頭を下げていると、暫く何かを考えた後、彼は納得したようにフンと短い息を吐いた。
なんだか随分懐かしい夢を見ていた。恐らく、あの瞬間から今の今まで一度も思い出す事もなかった、古い記憶。でも、風景、匂い、音、それから三成の表情。何から何までやけにリアルだった。合わせていた手のひらを見ると、じっとり湿っている。鼓動もいつもより心なしか速い気がした。
一体あれから何度、彼の嫌いな雨が降っただろう。
春を告げる雨も、すぐに止む夕立も、泣いてるような天気雨も、雪交じりの雨も。随分と離れた場所でそれぞれ降られていたはずの私たちは、どんなめぐり合わせだろう。何故か今同じ会社で働き、何故か一緒に暮らしている。きっとタイムマシン的な物に乗ってあの頃の私に会いに行き、今のこの状況を包み隠さず伝えたとしたら女子高生の自分に絶対に「嘘つき!」と一蹴されて信じて貰えないという変な確信がある。同居し始めた当初は何度となく、そんな三成曰く『馬鹿げたこと』を考えた。しかし、それも辞めて久しい。考えても仕方ないから。そして、今の私は今が楽しいから。恐らく理由はそれらに尽きる。
「洗濯、取り込んでくれたの?」
「雨が降りそうだったからな」
「ありがと」
籠を床に置き、三成は私の隣に腰を下ろす。三成の体の向こうにある窓を見ると、彼の言う通り、昼食を食べた時には出ていたはずの太陽は隠れ、薄いレースのカーテン越しに見る空の色は鈍く、今にも泣き出しそうだった。
「雨は、嫌いだ」
あの時よりも随分近くなった場所で、彼は雨の最初の一粒のようにぽつりと呟く。あまりに小さかったので、一瞬、聞き間違いかと思った。幻聴かと思った。はっとして三成の顔を見つめると、彼は幾度かの瞬きの後、相変わらず血色の悪い唇の両端を微かに持ち上げた。
「………。私も、嫌い」
「そうか」
「洗濯物が中々乾かないからね」
「ああ」
手を伸ばし、三成が取り込んでくれた籠の中のタオルを取り、顔を埋める。ゆっくり鼻から呼吸すると、微かに雨の匂いがした。重たい匂い。優しい匂い。安心する、懐かしい匂い。緩やかに肺を満たすそれは三成の首筋の匂いにも似ていると思った。私が、今現在、私以外の人間の中で最も良く知る匂いだった。
彼の事を知った今なら、あの頃の彼に私は何と言えるだろう。
それはやっぱり解らない。
あの時の三成は、今の三成じゃないから。同じように、三成を知る前の私は、別の人。私じゃない気がするから。
そして今の私が一緒に居る事を望むのは、夢の中で窓の外を睨む三成ではない。私の隣で洗濯物を畳みながら「雨は嫌い」と宣う三成なのだ。
「ねえ、三成」
「何だ」
「これ畳み終わったら、買い物に行こう」
「雨の中、か?」
「傘があるから大丈夫」
何処にだって行けるよ、私達は。同じ時間を過ごす、私達なら。
言うと、三成は怪訝な顔をしていたが、やがてあの頃と同じように、切れ長の目を丸くした後こくりと一度だけ頷いた。
嫌いな雨の中でも、風の中でも、雪の中でも、雷が鳴る中でも、傘があれば大丈夫。あの時とは違う。教室に置き忘れた私の折り畳み傘じゃなく、玄関に立てかけている、お揃いのこうもり傘があれば。過去にだって今にだって未来にだって。そんな気がしているのは、私だけじゃないと良いな、と思う。
星に願うには小さすぎるような、逆に壮大過ぎるような、そんな願いを込めるように、バスタオルを畳む三成の手を取り指を絡める。すると彼は照れたように視線を窓の外へ移した。窓際から、ぱらぱらと弾けるような音がする。いよいよ降り始めた“嫌いな雨”を背負う彼は、やはり変わらず美しく、それに似合う。