けふここのえに


私はあんたの事が嫌いや、千歳。

そんなに大きな声ではなかった。でも小さくもなかったから、私の声は埃っぽい本たちの間で控えめに響いた。目の前で校舎裏の銀杏の木みたいに佇む千歳のせいですっかり行き場を無くしてしまった右手を下ろし、制服の裾をぎゅっと握りしめる。春眠暁を覚え始めたそろそろ新緑香る頃。昼休み終了10分前の図書室は室温湿度共に良好。なはずなのに、どうしたことか、布地に触れる掌は薄い膜を張る程度に汗ばんでいた。千歳は文字通りきょとんとした表情で私の顔を見下ろした後、「そうなんや」とまるでおはよーさん、と朝の挨拶でもするかのように自然に笑った。なにが“そうなんや”やねん。あと何が可笑しいねん。何で笑ってんねや。アホかあんたは。そう問おうと口を開きかけた瞬間、彼は私が取るはずだったのに何がどうしたのかわからないうちにその手の中に収めてしまった指輪物語の3巻を私の鼻先に差し出した。
「取ろうとしとったん、これと?」
「……違う」
いや、ほんまは違わんけど。違う。違う。違う!吐き捨てるように言って、本棚の合間に生える大木に踵を返す。小さな風が起こるくらいの勢いで迷路みたいな室内を抜け、音を立てて入り口のドアを勢いよく開けると、カウンターの向こう側でブラックジャックを読んでいたお当番さんの財前が不審そうに顔を上げながら「あれ?借りひんのですか」と問いかけてきたが、ろくに顔も見ずに「ん!」と短く返事をし廊下へ逃げた。一思いに止めたくなるほど心臓がばくばくと五月蠅く鳴っている。財前のちょっとびっくりした顔、カウンターの前に置かれたブラックジャック全巻、束になって置かれる貸出カード、先の丸くなった鉛筆、薄暗い海外ファンタジー小説コーナーの本棚、埃被った指輪物語の3巻、それから大嫌いな千歳の能天気な笑顔。後ろ手で閉めたドアに背中をくっつけ、順繰りに脳裏に浮かんでは消えていく残像をどうすることも出来ず、ただ頭の中でミキサーにかけるようにかき混ぜながら、嫌いや、とおまけにもう一つ呟く。空気を読んだように廊下に鳴り響く予鈴を聞き、とぼとぼと手ぶらで教室に向かいながら部活の前に財前にどのようにして詫びをいれるべきか考えていた。

九州からやってきた転校生、千歳千里。3年1組、だけど授業には来たり来なかったり、やっぱり来なかったり。テニス部。たぶん、次の試合からはレギュラーになる。さざ波みたいな掴みどころのない、よく言えばミステリアスな性格と人好きのする笑顔のおかげで、女子にもそこそこ人気はある。それからどんだけ昼寝をしたらそんなにでかくなれるのだろう。そう問いたくなるほど大きな体の中は、意外とファンタジー的な要素が詰まっている。らしい。もう既におわかりの通り、私は彼の事を嫌っているから、私の千歳に対する知識は全部自分の周りの子たちが噂していた内容に因るものだ。この世代の女の子は噂かお菓子か夢か希望かで出来てるってくらい噂が好きだから、よっぽどぼんやり生きていない限り大抵の事は全部耳に入ってくる。知りたかったことも、知りたくなかったことも、知る必要がないものも全部。ちなみに私にとって千歳千里に関するあれこれは『知りたくもないし、知る必要もない』物にカテゴライズされる。

3年に転校生が来るんやって。男の子。そんな噂が流れたのはあと数日で新学期という春休みの終わりだった。なんか九州の方でテニスやっとったらしいわ。そこそこ強いらしいで。へー、男子ばっかなんかずるいな。女テニも頑張らな。ははは、ほんまに。白石に負けず劣らずの男前やとええな、な?部長?用品の片づけもそこそこに噂話に花を咲かせる部員達を「そんなことええからはよ片づけて帰ろうや、日ぃ暮れてしまうで」と窘めたのも、新学期に発表された新しいクラス名簿の中、自分のクラスに見慣れない名前があって「ああ、こいつか」と思ったのも、体育館での始業式が終わった後、担任に「初日からサボるっちゅーのはどういうことやお前」と怒られながら教室に入ってきた彼の姿を見た時に「すごい、銀さんよりでかい、たぶん」という安直な感想を抱いてしまったのも、ボリューミーな髪の毛を照れくさそうに掻きながらの「千歳千里言います。どうぞよろしくお願いします」という簡素な自己紹介の後、担任に「席はー…最初は出席番号順やったな?そうなるとそこか。って一番前やがな!アカンアカン、千歳にそないなとこ座らせたらその列の奴授業になれへん。勉学に支障を来すっちゅー奴やで。誰か…あっ、。なんやお前一番後ろで辛気臭い顔してんな?景気づけに千歳と席変わったれ。な?頼むわあ」と強引に席をとりかえっこされてしまった(他でもない、これが私が千歳の事を嫌うようになった理由である!)のも、全部が全部昨日の事のように思い出せる。まあ、ほんの数週間前のことだから当たり前なんだけど。いっそのこと忘れてしまえればどんなに楽か。でも忘れただけでは千歳という存在は消えないわけだし、じゃあそうなると、千歳が転校してくる前に時を巻き戻すとか。そんなありきたりなファンタジー小説的展開な発想しかできない私は私で問題かもしれないと思った。千歳ほど問題ではないけれど。帰りのホームルームで配られた三者面談のお知らせを後ろの席に回しながら、嘗て、というか3年生初日の1時間ちょっとの間だけ私の席だった、そして今は千歳の席である窓際一番後ろの『当たり席』に目をやる。そこはやっぱり今日もからっぽで、傍らで揺れる白いカーテンが椅子の背を撫でるように虚しく踊っていた。折角私が譲ってやったのに授業に出ぇへんってどういう神経してんのやろ、千歳千里。



「何や、。腹でも痛いんか?」
「白石、それあんまり女子に言わん方がええと思うよ」
「わかっとるわ。謙也やあるまいし。やから言うてんねん」
「あっそ」
「ほんで来週のミーティングやけどな、」
「うん」
あくる日の二限目と三限目の間の休み時間。白石から部活の議事録用の大学ノートを受け取り、非常に事務的な会話を二言三言交わす。わー白石くんや、と見るからにテンションが上がってしまっているクラスメイト達の視線に気づき、居心地の悪さを感じたのか、苦笑しつつ、ほな、と私に告げ自分のクラスに戻って行こうとした白石は、一歩半くらい歩いたところでふと足を止める。その視線の先は言うまでもない、件の『当たり席』だった。
「どうしたん?」
「…いや、千歳は今日も来てへんのかと思って」
「………私の前でその名を出すか………」
「堪忍堪忍。しかしえらい嫌われ様やな、千歳も」
まああの席からこの最前アリーナやからな、俺もの立場やったらまあ多少怒るかもな。でも寝る暇無くてええんちゃう?ポジティブにいこうや。テニスも学校生活も。な?言って、わざとらしく肩を竦める白石に内心で舌打ちをする。どいつもこいつも口を開けば千歳千歳。…まではいかないけど、嫌でも話題に上ってしまう男、千歳千里。その事実が私の苛々を静かに加速させる。
「千歳、昨日は部活にも来ぇへんかった」
「そうなん?でも学校には来てるで」
「ほんまに?」
「昨日、図書室で会うたから」
「そうか。なら………っと、噂をすれば、や」
私の背後を指し、にやりと笑う白石に眉根を寄せつつ私が「は?」と声を上げるのと、「おはようさん、白石、。一瞬クラス間違えたかと思うたばい」という欠伸交じりの間延びした声が聞こえたのはほぼ同時の事だった。
「んげ」
「なんね、幽霊でも見たような顔して」
千歳か幽霊か。だったら幽霊だった方がよかった。何千倍も。そんな冗談も言う気にもなれず、私はただ黙ってぷいっとわざとらしく千歳から顔を逸らしてみる。
「どぎゃんしたと?」
「思春期の乙女心っちゅーのは複雑なんや。そんなことより大遅刻やで千歳。学校に来ただけまあ良しとするけど」
「?ようわからんなあ」
横目で盗み見た、私と白石を見比べて心底不思議そうに首を傾げて見せる千歳と、小さな子供をあやすように千歳に言う白石の声色が心なしか楽しそうにも思えたこと。その両方が癇に障って仕方なかった。

結局千歳はその日、午前中の授業には真面目に出席していたが、午後になるとまた姿を消していた。部活の後、部室の鍵を返しに職員室に寄ると、私と入れ替わりに出てきた白石が「今日は千歳おったで」と聞いてもいないのに報告をしてくれたから、部活には出たという情報は得ることが出来た。別にいらなかったのだが。白石からの報告に顔の下あたりを引きつらせていたら、いつ手に入れたのだろう。オサムちゃんがスポーツ新聞の夕刊を片手に「なんやお前らまだおったんか、はよ帰り」としっしっと追っ払うように手を振ってきた。私もオサムちゃんくらい能天気に生きられたらええのにな。なんて本人には言えへんけど、現実逃避がてら、そんなことを思った。色々と難しく考えてしまう私も、内職も居眠りも全くできない席に追いやられてクラスの男子を恨む私も、いつかあんなマシュマロみたいな思考を得ることができるのだろうか。今は出来る気がしない。



そういえばゴタゴタ続きで結局借りてなかった、指輪物語。そのことに気が付いたのは千歳が授業に顔を出したあの日から2日後の数学の授業中だった。友人とのランチタイムをいつもより巻き気味に終えた後、ごめん、図書室行ってくるわと断り、3階の渡り廊下へ続くドアを開けると、一瞬でむせるほどの青い香りに包まれた。頭上には眩しいほどの青空が広がり、来る夏への期待と心地のいい不安が押し寄せる。なんだか、こんな晴れやかで開放的な気分になったのは部活の時以外では久しぶりな気がした。青空とお天道様にかかれば大抵の事はどうでもよくなる。昔、誰かがそんなことを言っていたなあ、と思わずスキップを始めてしまいそうな勢いで渡り廊下を歩いていると、
「何や。随分と楽しそうやなあ」
「………」
私を背後から呼び止めた聞き覚えのありすぎる声に、私のテンションは急流すべりの如く降下していった。
「なー、起きとる?」
「………寝てへんわ」
「そりゃよかった」
ひらひらと大きな掌を私の顔の前で振る千歳に噛みつくように言うと、彼はけらけらと声を上げて笑う。
「どけ行くん?また図書室?」
「あんたには関係ないやろ」
「結局こないだのあれ借ったと?指輪物語」
「………」
「あれば取るんな大変やろ、高かところにあるけん。俺が取っちゃる」
「……なあ千歳」
何を考えてるかちっともわからない。(けど、意外とよくしゃべるな、この男。)身長の高さ。類まれなるテニスの才能。極めて不真面目な出席率。何かと話題の転校生。クラスの子も、部活の子も、先生も、みんな口を開けば千歳、千歳。嫌でも耳に入ってくる千歳の情報だったが、その情報は、まだ私の耳には入っていなかった。情報は何もないところからは発生しない。もしかすると、これは誰も知らない情報なのかもしれなかった。第一発見者が私だっただけで。第一発見者!なんかその響き、悪くないんじゃなかろうか。そんなことを考えてしまう私は私らしくなくて、どうかしているのかもしれない、と思ったけど、私らしさって何やろ、とアイデンティティの模索をしそうになったところで一旦思考のブレーキをかける。そして私の後ろをカルガモの子供のようにしつこく付いてくる千歳の方を振り返り、足を止めると、彼もそれに倣って歩みを止めた。
「何?」
「…私は、あんたの事が嫌いや」
「うん、知っとる」
「知ってんのか」
「こないだも言うとった」
「…これから仲良くなりたいとも思ってへん」
「うん」
「………なら何で、」
「ほい」
唸るように出した私の言葉は、彼の後ろから突如目の前に現れた、目を引く桃色によって遮られた。
「……何これ」
「知らん?八重桜。校舎裏に咲いとるのが綺麗やったけん、一本折ってきた」
「いや、花の種類を聞いてるんやのうて…っていうか折ったって…」
「お詫びばい」
お詫び。おわび。とは。見事な花をつけた枝を得意気に差し出しながらへへ、と鼻の下を掻く千歳を前に完全に思考が停止してしまった私が口をぱくぱくさせていると、代わりに千歳が口を開いた。
「あん席、日当たりがようて気持ちよか。そぎゃん席ば取ってしもうたけん」
そのお詫び。体の横で力を抜いて、だらんとぶら下がっていた私の手を取り、枝を握らせる千歳に怒りや呆れとはまた毛色の違う、よくわからない感情を抱きながら見上げると、眩しいほどの青を背負った彼は得意気に笑った。わからない。彼が、わからない。わからんままでええやんか!いつもならそう思うはずなのに、今日は少しだけ何かが違った。いつも朝はパンを食べるけど今日はご飯だったとか、髪の毛をくくる位置がいつもより気持ち高めだったとか、その程度の「何かが違う」具合だけど。
「……そんな風に思ってんのやったらちゃんと授業出ぇや」
かわいそうやろ、机も椅子も。
千歳とは仲良くなりたいとは思わないし、仲良くなれるとも思えない。けど、案外よく喋ること。何も考えていないようで彼なりに何かを考えているらしいこと。校舎裏に咲く花の名前を知っていること。青い空が悔しいほどに似合うこと。その他もろもろ。彼について知ることくらいなら、まあ。良いんじゃなかろうか。百歩、否、七百歩くらい譲って、な?
なんだか気恥ずかしくて、幾重にも重なる花びらに目を落としながら呟くと、暫く空白の時間があった後、「…ああー…」というYESともNOとも取れそうで取れない返事が降ってきた。いやいや、それどっちなん。それも、これから知っていけばいいか。なんて。
「……あっ、あかん、昼休み終わってまう」
青空の魔法から覚めてはっと我に返り声を上げると、千歳は驚いたようにぱちくりと目を見開いた後、じんわりと溶かすように顔をほころばせ、「本当ね」と言った。
午後の3年1組の教室。日当たり、風通し、そして眺めも良好な窓側の一番後ろ。傍らでカーテンの踊るあの席に退屈そうに頬杖をついて座る千歳の姿を思い描きながら、私たちは図書室へと急いだ。