「そう言えば、向こうで会ったんだって?」
膨らむ蕾。柔い匂い。日々少しずつ感じる変化から推測するに春は目と鼻の先まで来ているはずなのに、体の芯から冷えるような日の夕暮れだった。
銭湯から出て部員達と別れ、駅まで向かうを送り届けている途中。何の前触れもなく突然訊ねられて筧は静かに眉根を寄せる。
当の質問を寄越した張本人であるの顔を見れば、この寒い中、先ほど立ち寄ったコンビニで購入した棒状のアイスを咥えたままじっとこちらに視線を向けていた。
「……誰に?」
「あいひーうほひにゅういひ」
「食いながら喋んな」
行儀の悪さを筧が咎めると、はアイスを顔の横で振り、もうすっかり慣れたと言わんばかりに「にひひ」と軽く笑って返す。
それから「すっごい寒いねー、今日」とわざとらしく身震いして見せつつ呟く彼女に「だったらそれ食うのやめりゃいいじゃねえか」と続けようとしたが、のペースに巻き込まれて話が横道に逸れてしまう予感しかしなかったのでぐっと堪えた。
と筧が同じクラスになり、こうして話をしたり共に下校したりするようになってもうじき季節が一巡する。それだけの期間があれば大体互いの考えている事や自分の発言にどう返すかは予想がつくようになるものだ。
尤も、ふたりの場合、先日ただの友人という関係から恋人へと昇格したというのも大きな一因として考えられるが。
「水町に聞いたのか?」
あいひーうほひにゅういひ。
の口から出て来た謎の単語。それをあっさり『アイシールド21』だと解読してしまえたのは、筧にとって彼と最後に接触した記憶が新しい物であるからだった。また、或いは前述のような理由もあるかもしれなかったのだが、恐らく今はその点に関しては明確にしなくても差支えないだろう。
そんな誰にするでもない言い訳めいたことを考えながら筧がに問うと、
「そ。『あのいつもマジな筧が本人の前で珍しくたじたじしてたから、俺が背中押してやったんだ~』って自慢げに言ってたよん」
筧からすると絶妙に似ていない共通の友人のモノマネを交えつつ言って、またアイスを一口齧る。それによって外気に晒された木製の棒に書いてある『はずれ』の文字を見て、は「あー」と落胆の声を上げた。
つい先日まで、筧と水町を含む数人の選手はワールドカップの選抜メンバーとして渡米していた。
主に関西の強豪校と関東の有力選手が招集され、共に同じチームの仲間として闘うというのは間違いなく筧にとって良い経験になったと言える。
そんな貴重な体験の中で、筧にとっては嬉しい再会もあった。その相手というのがの言う『アイシールド21』だった男、大和猛である。
中学時代、挫折を味わい、もうアメフトを辞めようと思っていた矢先に出会い、再び自分をフィールドへと引き戻してくれた筧にとっての一方的な恩人とも言える彼の正体は、『日本の学校に居る』という情報以外は長らく謎のままだった。
だが昨年末に漸く判明し、いつか話す機会があればと頭の片隅で考えていた。それが幸運にも今回、ふたりが初めてあった場所でもあるアメリカの地で実現したのだ。
大和と自分の出会いの話を、掻い摘んでではあるが今日のような帰り道、筧はかつて何気なく聞かせたことがある。それをは律儀に覚えていたようで、こうして目を輝かせながら訊ねている。
この事実は筧にとって喜ばしくもあり、同時にどこかくすぐったさを感じるのだが、それは今は取り立てて言及するほどのことではないと頭の片隅へとそっと押しやるのだった。
「どーだった?かっこよかった?筧のこと、ちゃんと覚えてくれてた?」
にとっては何一つ関係のないエピソードであるのだが、興味津々な様子だ。
身をこちらに乗り出すようにして訊ねるを横目で見て長い息を吐き、筧は反対に訊いてみる。
「そんなに訊いてホントに興味あんのかお前」
「あるよお?」
「…………」
怪しい。
正直なところ筧は思ったが、先ほどと同じく敢えて口にすることはしなかった。口で語らずとも、恐らく自身の表情で伝わっているだろうと思ったからだ。
考えつつの顔を見れば、筧の想像と反し、相変わらず目を宝石のように輝かせながらこちらを見ていた。
妙な奴だ、と微かに顔を顰める。いくら恋人の事であるとは言え、そこまで熱心に話を聞きたがる、その神経が筧にはよくわからなかったが、不思議と悪い気はしない。そう思った。
どんな事であれ、自分に興味を持たれるというのは、即ち自分の事をそれだけ深く知りたいと思ってもらっているということ。そしてそう思っているのが自分が大切にしていきたい相手ならば、嬉しいのは当然のことだろう。
やや照れくさい思考を巡らせ、筧は口を開く。
「俺と前に話したこと、ちゃんと覚えてくれてた」
告げると、は「へー!よかったじゃん!」と言いながらアイスを持っていない方の手で筧の背中をぽふぽふ叩く。まるで試合後を想起させるようなその行動に「ふ」と短い笑い声を零し、
「試合開始から闘うって約束はまだ果たせてねえけどな」
と続けると、は筧の背中に手のひらを添えたまま一瞬何か考えるような素振りを見せた後、小さく「そっか。そうだね」と呟き、目を薄っすら細めた。
『今度ちゃんと試合開始から闘おう』
中学時代、未だ正体不明だった大和に言われた言葉を筧は一言一句違わず覚えている。一瞬たりとも忘れたことなどない。
出会ってから数年間、彼のその言葉が自分の情熱の原動力となっていたからだ。
ここまで決して楽な道ではなかった。が、諦めることなく立ち続けられたのは勿論出会った仲間のお陰でもあり、同時に彼のお陰でもあると言える。
そんな憧れでもあり目標でもあり目的でもあった彼と今回同じチームの仲間として試合に出ることはできた。だが互いが倒すべき相手として闘うという約束は果たせていない。
しかしまだチャンスはある。寧ろ、まだまだこれからなのだ。自分の選手としての道程は。
改めて筧は自分に言い聞かせ、身を引き締めるようにバッグの肩紐に添える手に力を込める。
と、同時に踏み出す足を一瞬止める程度の衝撃があった後、背中の下あたりに柔らかな感触が広がった。
「……。……おい、何してんだ」
振り返れば、背面から筧に抱き着くの頭が肩越しに見えた。
狭い道とは言え、時間も時間だ。それなりに人の往来がある場所での突然の行動に、筧は内心酷く動揺する。
前から来た自転車の男性はこちらを明らかに不審そうに見ていたし、反対側の歩道を歩く女子中学生のグループはくすくすと軽い笑い声を上げていた。
それに気づいているのかいないのか、どちらでも構わないと言った様子では筧の腰に腕を回し、背中に顔を埋めたまま「気合を入れてる」とくぐもった声で答えた。
「いや、別にそんなことされる必要ねーし」
「私がしたかったので」
「だとしてももっと他にやり方があんだろ」
「咄嗟に思いついた方法がこれだったので」
「…………」
返す言葉が見つからず、深い溜息を吐いた筧はそのまま視線を自分の腹のあたりに下ろし、回されたの手に握られた、いつの間にか裸になっていたアイスの棒を見る。
それを握るの指先が小さく震えているようにも思えたが、それはきっと寒さのせいだ。そう思うことに決めてそっと自分の手を添えてみる。
背中越しにぴくりとの体が跳ねるのを感じた。かと思えば、ややあってゆっくりと体温は離れ、再びは筧の隣に並び立った。
そして、先ほどの行動は幻だと言わんばかりに、何事もなかったかのようには小さく咳払いをした後、「実現させるためにも、まずは新入生の勧誘だね」と言ってどこか得意気な表情で笑い、歩き始める。
一連の流れにやや面食らって無意識的に開けていた口を結び、筧も倣って足を踏み出した。
先ほどの行動は一体何だったのだろう。
本当に、が言う通り『気合を入れて』くれたのか、はたまた他の理由があるのか。
その点については確かめる術は本人に問う以外に無いのだが、ここではそっと心に仕舞っておくのが正解なのだろう。筧は考え、ただ短く「ああ」と相槌を打つ。
気が付けば目的地であるの使う駅は目と鼻の先まで来ていた。薄暗い世界に、駅舎が纏う光が一際眩しく映る。
暗闇の中に居たあの時に初めて大和のプレーを目の当たりにした時の眩しさをそれに重ね、筧はにもわからない程度に微かに唇の端を上げた。
「そんで、今年の冬こそは全国行って……」
「……」
「んで、私もその人に会って、『筧を更生してくれてありがとう』って言う!」
「お前それまだ言ってんのか」
「言うよー!?私、自分の言ったことは全部覚えてるもん」
「ほんとかよ」
「ほんとだよー!」
耳を赤く染め、へへへと何故か困った風な顔で笑ったに、筧もつられるようにして笑みを浮かべる。
じきに春が来る。それから夏が来て、秋が来て、冬になる。
当たり前に巡る環の中に在るきっと当たり前ではない時間。存在。
駅前の横断歩道の信号が変わるのを待つ間、恐らくそのうちのひとつであるの頭のてっぺんに、筧はそっと手を添える。
一瞬驚いたように目を見開き筧の顔を仰ぎ見ていただったが、自分なりに何かを理解したようで視線を反対側の歩道へと移し、筧もそれに倣う。
行き交う車のヘッドライトがふたりの行く道をただ静かに照らしていた。