海底にて


自分のじゃないけどその次くらいによく知ってる匂いがして、ゆっくりと目を開ける。多分、微睡んでいる間に照明を落としてくれたのだろう。自分がこの部屋に入ってきたときより薄暗くなった部屋の灯りが瞳を揺らし、それから自分の椅子に座ってマグカップに口を付ける筧と目が合った。

「……寝てた」
「だろうな」

自分のベッドの上で眠りこけていた私に、筧は特に咎めるでもなく呆れるでもなく、軽く挨拶をするかのようなテンションで言った。
基本的には超が付くほど真面目で厳しい彼だが、偶によくわからないところで寛容になる。
遅くまで仕事をする彼の寝室にそっと入り、断りもせずベッドの上に乗って以前家具屋で買ったサメのぬいぐるみと戯れたり友達から来たメールに返信したりして暇を潰して、それから寝落ちする。という客観的に見てもダメな大人の代表みたいな振る舞いをする私を、筧はすっかり慣れたと言わんばかりに平然と受け入れる。それは私にとっては好都合なのだが、彼にとっては……どうなのだろう。偶に今日みたいに考えてしまう時がある。
しかし、結局また同じ道を歩んでしまうのだ。ある意味、甘やかされているんだろうなと思う。本人に言ったら全力で否定するのは目に見えているので、黙っているのだが。

「仕事、終わった?」
「終わった」
「寝る?」

寝ている間に掛けてくれたらしい毛布の中から手を伸ばし、頷いて立ち上がる彼のスウェットの裾をぎゅっと引っ張る。彼は驚いたように振り返って私に視線を向け、それから微かに眉を寄せた。

「んだよ」
「一緒に寝よ」
「……はあ?」
「偶にはいいじゃん」
「お前一昨日もこっちで寝たろ」
「いいじゃん。筧と一緒に寝たいんだよー」

アメリカからこっちに帰ってきて数年。現在教職に就いている筧は基本朝早くに出ていくし、かと思えば今日みたいに夜遅くまで何かしらの作業をしている日がある。だから一緒に住むとき問題にならないように寝室を分けたのだが、なんやかんや(主に私が無理を言って)一緒に寝る日が多い。 それに対して筧は「何のために部屋分けたんだよ」とよく小言を言う。が、私は私で毎度懲りずに自分の気持ちをぶつける。
それは自分が筧に甘やかされているというある種歪んだ信頼があるからできることであった。

寝そべったまま、じっと彼の目を見る。暗い海の底みたいに綺麗だと思う。もっと近くで見たいと思う。穴が空くほどに熱い視線を送り返していると、やはり“よくわからないところで寛容になる”彼は「……良いけど明日も早いぞ」と溜息交じりに言って、折れた。

「うん。家出る時に起こして」
「目覚まし代わりかよ」
「兼、抱き枕」

ふ、と短い息を吐いて筧は「これ片付けて来るから待ってろ」とカップを顔の前に掲げ、部屋を出ていく。
その大きな背中を見送り、毛布の中で小さくガッツポーズをして喜んでいるという事実は、私と枕元に置いたサメだけが知る内緒の話。