タイムラグ


「幼稚園のころよく遊んでた男の子がね、」
ドライヤーの音と風が弱まったのと同時に私が何の脈絡もなく切り出すと、背後に座っている筧は一瞬ぴくりと体を震わせた。いや、正確には頭を乾かしてもらっているこの位置では彼の姿は見えないから、そんな気がしただけだが。
筧の身体に触れるか触れないかの位置に膝を抱えて座り、私は先ほどから文字通り〝されるがまま〟になっている。と言えばまるで被害者のようだが、そもそも私がお風呂から出たあと、髪をタオルで拭いただけの状態で水を飲んだりケータイをいじったり夜のニュースが流れているテレビを見たりしていたから、見るに見かねた筧がため息交じりに「座れ」と促してきて、強制的に髪を乾かされることになったのだ。
面倒見が良すぎるのは出会った高校の頃から何年経っても全く変わっていない。なんやかんや文句を言いながらも最終的にはあれこれやってくれてしまう筧に、私は実際甘えている部分がある。
成人して働いているいい大人がそんなので恥ずかしくないのか、と問われれば微妙なところだが、もうひとりの私がそんな風に頭の中で問いかけてきたときには『離れてた間の埋め合わせ』だと言い聞かせるようにしている。四年も物理的に離れていたのだ。これくらいはよかろう、と。
そして筧も恐らく似たように思っているであろうことも、私はなんとなく察していた。

「……男の子が?」
五本の指でわしゃわしゃと私の髪を掻きながら、筧はいつもより低い声で問う。 なんというか、非常に分かり易くて思わずにやついてしまう。だが幸いなことに今私がどんな顔をしているのかは筧にはわからないから、とくに誤魔化すような真似はしない。だからここぞとばかりに存分にニヤニヤさせていただきつつ、私は言葉を続ける。
「髪の毛の短い子が好きって私に言ってきたことがあって。そのとき私はずっと髪を伸ばしてたんだけどね? 帰りにお母さんに『すぐに髪を切らなきゃ!』って言って困らせたことがあってさー」
「へえ」
「結局『切るのはダメ』って言われて終わったんだよね。その子のことが好きだとかその時はまだよくわかんなかったけど、今思い返せば好きなの子の好みの女の子になりたかったんだろうなって」
今ふと思い出したんだよね。
と暇つぶしにしたちいさな昔話を終えると、ちょうど乾かし終えたらしく、筧はドライヤーを切ってことりと床に置いた。
筧は何も言わない。黙ったまま、先日突然思い立って二十センチほど切ったばかりの私の髪の毛に何度か指を通して整える。
ああ、そういえば、ブラシは洗面所に置いたままだった。取りに行こうかと立ち上がるべく体勢を変えたとき。
「……俺は、どっちもいいと思うけどな。長くても短くても」
やや掠れた声で筧が言ったので、私は思わずバランスを崩しそうになった。
どうにかこうにか耐えてそのまま筧の顔を見れば、お風呂はこれから入るはずなのに頬がほんのり赤い。そしてなんだか気まずそうに眉を寄せながら「んだよその顔」と宣った。
いやいや、それは寧ろこちらのセリフですが?
「えっ……筧がそんなこと言うなんて珍しいなと」
「俺はただ自分の意見を言っただけだろうが」
「えー? でもさあ~」
「いいから。ブラシ取ってこい早く」
洗面所を指さして促す筧に「はーい」と適当な返事を返しながら、私はぱたぱたと足音を立てて向かう。
目的の物を手に取った瞬間、鏡に一瞬映った自分の顔。先ほど見た筧の顔に負けないくらい赤くなっている言い訳を考えるには時間がなさすぎる。
観念して筧の元へと戻りつつ、私はあの時はなれなかった『好きな人の好きな子』になれた幸福感を密かに胸に抱くのだった。