101回目のプロローグ


災難というのは重なるものだと十七年の人生で私は身をもって学んできた。が、それにしても今日の私は散々だった。
災難ひとつめ。期末テストの数学がびっくりするくらい解けなかった。これは範囲を勘違いしていた私が悪いのと、単なる努力不足だから仕方ないと自省している。明日の教科は頑張ります。
ふたつめ。放課後、突然彼氏にフラれた。「なんか思ってた性格とちょっと違った」とか言われたけど告白してきたのそっちだからね? 深く考えずに受け入れたのはこっちだけど? というか思ってた性格と違ったって何? 一緒に帰るくらいしかしてないけど三ヶ月も付き合っておきながら? 今更? 無論、これに関しては私は絶対悪くない。勝手に期待して勝手に失望したあいつが悪いから。以上。
みっつめとよっつめ。最悪なことに、私がフラれている現場を幼馴染の陸に見られた。そして――
「絶っ対私の方が先に見つけたのに!」
「いや先に取った方が勝ちだろ」
「ズルっ!」
夕暮れ時、近所のスーパーの荷詰め台の前で私が陸に何度目かの怒りをぶつけると、通りすがりの知らないおばさんに睨まれてしまった。確かに公衆の面前で大きな声を出したのは私が悪いよ。けどさ、今日の私の一日の出来事をどうか考慮してはくれまいか。本当に散々だったんですよ。内心そんなことを思っていても、当然ながらおばさんは知ったこっちゃないので致し方なくぺこりと頭を下げておいた。ここで潔く大人な対応ができる私は偉い。裏を返せば小心者とも言えるが。
さて、そうこうしている間に陸は私とタッチの差でゲットした目当ての物――夕飯の支度をしているお母さんに急遽買ってくるよう頼まれた特売品のたまご十個入り最後の一パックを袋に詰め終え、「だから、半分そっちにわけるよう俺の母さんに言ってやるから」とうんざりした口調で言う。まあ、売り切れたものはもう仕方ない。他に成す術もないので私は陸の申し出を渋々受け入れ、買い物袋を提げる陸の後ろに続く。そして自動ドアをくぐり、湿気の多い空気に包まれながらケータイを取り出し『たまご、陸にとられた~(泣)』と母親にやや誇張表現を盛り込んだ現状報告のメールを打った。

陸のお母さんと私の母親は高校のときからの親友だ。大人になってもずっと仲が良くて、似たような時期にそれぞれ結婚して家庭を持って私が生まれて、その翌年には陸が生まれた。だから陸とは物心がつく大分前からの付き合いになる。けど、ずっと東京に住んでいる私の家とは違って陸のお父さんは転勤族だったから、同じ場所に住んだり同じ学校に通ったりした期間は実はそんなに長くない。陸が地方の学校に行っている間も年に最低一度は家族ぐるみで会っていたのでお互いのことをよくよく知ってはいるのだが、性別も違うし、なんとなく友達と表現するのはちょっと違うような気もしていた。そう、友達というより親戚の子みたいな。偶に会って、一緒に遊んだり話したりする一個下の幼馴染の男の子。長らくの間、それが私たちの関係だった。
しかし偶然か見えない力(と書いて親のエゴと読む)が働いたのか、私が通っている高校にこの春陸が入学してきてからは関係がガラッと変わった。学年こそ違えど教室移動の時などにはよく顔を合わせるし、同じマンションの上下に住んでいるものだから陸の家に野菜とか総菜とかを届けるよう母に頼まれることもあるし、反対に私が家に帰ったら同じようにおつかいに来ていた陸が迎えてくれた、なんてこともある。
なんかこう、一般的に思春期の男の子ってもっとめんどくさそうなものだけど、陸はそういう感じではない。良くも悪くも真面目で真っ直ぐで、人の悪口を言ったり親に反抗したりしているところを一度も見たことがない。スポーツをずっとやっているから精神も健全なんだろうな、と私は勝手に思っている。まあ、さっきのたまごは譲ってくれなかったけど。こういうところは負けず嫌いなんだよな。それも理解している。

「……そういえば、大丈夫か?」
「あー、たまごなら大丈夫だよ多分。だって半分くれるんでしょ?」
「いや……そうじゃなくて」
陸にしては珍しく、妙に歯切れが悪い物言いだった。カサカサとたまごの入ったビニール袋を鳴らしながら家に向かって私の前を歩いていた陸は突然立ち止まり、私の方を振り返った。それに倣って私も立ち止まる。道端で向き合う形になったふたりの脇を、柴犬を連れたおじいさんが通り過ぎていく。時間が急にゆっくりになったような感覚をおぼえる。
「はあ? やっぱりくれないとかやめてよ。うちの夕飯親子丼なんだからたまごがないと」
「たまごの話じゃない! ……あの、昼間学校が終わった後の、アレ」
陸が言う〝アレ〟と居心地悪そうに宙を泳ぐ彼の目。ここで漸く思い出した。いや、思い出させられた。そうだ、私は見られていたんだった。あの現場を。
「あー……アレね。陸、見てたよね」
強がりでもなんでもなく、腹は立っているが私には何の未練もない。だから毅然と返したものの、シチュエーションがシチュエーションだっただけに正直恥ずかしさはある。頬がじんわり熱くなるのを感じていると、陸はやっと顔を上げてこくりと一度頷いた。
「全然大丈夫。もともと私はあいつのこと好きじゃなかったし。なんとなく言われて付き合ってただけだから」
「……そういうもん?」
「そういうもん」
恥ずかしさを誤魔化すように笑って見せると、陸は「ふぅん」と息を吐く。もう視線は泳いでいない。いつものやたら意志の強そうな目だっだけど、何かを考えているようにも見えた。
そういえば、陸にも彼女が居たと聞いたことがある。二、三年前だっけ。お母さんが興奮気味に話していたけど、あれっきり話は聞いていないからきっと別れたんだろう。勝手に推測して陸には悪いけど、陸も私に近い人間な気がするから、似たような別れ方をしてたりして。そうだったらいいのにな。なんて考えてしまったところで
「……なんかいまひとつわかんないんだよねー。好きだとか、愛だとか、恋だとか」
沈黙がそろそろ耐えきれなくなったので、気まずさを紛らわすために今度は私が陸の前を歩きながら口を開く。かさりと袋が鳴って、陸が私の横に並んだ。私たちの家がある住宅街へと続く並木道は、どこかの家から漂ってくる美味しそうな匂いで満たされている。そんな中、陸は相変わらず黙ったままだったので
「陸は今、好きな人とかいないの?」
場の空気を変えようとちょっと意地悪な質問をしてみる。どうせ陸は速く走ることとアメフトのことしか考えてないのだ。そんな色恋のことなんて、という前提のもと。だが次の瞬間、私の予想は大きくひっくり返る。
「……。……いる」
「うっそーーーー⁉」
たまごを持っているのが陸でよかったと心から思った。私が持っていたらきっと驚きのあまり落として割っていたに違いないから。
私の手からすり抜けた財布とケータイしか入ってないペラペラのトートバッグを拾いながら、陸は「いや……訊いといてそのリアクションは失礼だろ」と苦笑いをした。
「だ、誰? 私の知ってる人?」
「そうだな」
「えー⁉ 誰だろう⁉ きっと同じ学校の子だよねー」
「正解」
「えー! やっぱり!」
思わぬ答えの連続に、私のテンションは最高潮に達していた。さっきまでの怒りは上書きされ、もう影も形も残り香もない。
まさか陸に好きな人がいるなんて!
心の底から面白いと思う反面、やはり色恋のいの字もわからない私とは違って年頃の男の子なりに誰かに想いを寄せているという事実には若干寂しさのようなものも感じた。先を越されたような、置いてけぼりにされたような。手を伸ばせば触れられる位置に居る分、なおさらだ。
「告白は? しないの? ってかもうしたの?」
陸の顔を覗き込み訊ねる。すると陸ははたと足を止め「……今身長いくつ?」と藪から棒に質問をしてきた。
「は? え? なんで身長? 告白の話してたんじゃん」
質問の意図がまったくわからない。だが陸は至って真面目な表情で「いいから」と諭すように言った。仕方なくそれに私は従う。
「えー? えっと、こないだ測ったときは一六〇ちょうどだったよ」
「…………あと二センチか…………」
私の答えを聞いて、口元に空いている方の手をやりつつなにやら真剣に考えこむ陸。二センチって何? 相変わらずわけがわからない。思考は追い付かないが歩みは進み、気がつけばふたりのマンションの前まで来ていた。ふたりでエレベーターに乗り込んで、それぞれの行き先ボタンを押しながら私は考える。さては脈絡のない質問を挟んで有耶無耶にする作戦だろうか? その手には乗れない。どうにか陸が想いを寄せる子の情報をもっともっと聞き出さなくては、と私も半ばムキになって「ねえねえ陸、さっきの私の質問に」答えてよ。と再び食らいついたとき
「告白は――」
陸はいつも以上にはっきりと、そんなに大きくはないが狭い箱いっぱいに響く声で私の言葉を遮った。

「告白は、そいつより背が高くなったらしようって決めてるから」

陸が言い終えると同時に扉が開く。陸はしっかりとした足取りで降りて行き
「じゃ、うちの分のたまご置いてくるから。あとで持ってく」
閉まる扉の向こうでそう言って、こちらを振り返りながらにやりと笑った。ように見えた。

いや、あの、本当に。なんて日だろうか?

自惚れなんかじゃない。あんな目で、あんな訊き方や言い方をされたら色恋がわからない私にだって、さすがにわかってしまう。全ての点がつながったと同時にひとり残された私は、そのまま自分の住んでいる階に着いて再びエレベーターの扉が開いても、暫く茫然と立ち尽くす他なかった。
きっと夕陽より真っ赤な頬の赤みが引くのと陸がたまごを持ってうちにやってくるの。果たしてどちらの方がはやいだろう?