深い意味などない。ただその目に映るものを知りたかっただけだった。
「そこからは何が見えるの?」
訊ねると、ルックは読んでいた本から顔を上げつつ「どういう意味?」と眉間に皺を刻む。温度は高くない。寧ろ冷たい。だからこそ心臓に真っ直ぐに突き刺さるような物の言い方である。
「そのまんまの意味だけど?」
「それがわからないって言ってるんだけど」
「なんで喧嘩腰なの? 意味わかんないんだけど」
「君の質問の意図がわかりにくいのがいけないと思うんだけど」
ああいえばこう言う。体当たりみたいな私たちの言葉のやりとりは数年前、トランの城に居た頃と何ら変わりない。当時を知る馴染みの顔が周りにいないことを幸いに思い、私は小さく息をつく。そして
「……だから、いつもルックが座ってるとこ。その場所からは何が見えてるのかな、何を見てるのかなって気になっただけ」
喉にへばりつく言葉を絞り出すようにして続けた。
付き合いは決して短くないし浅くはないとは言えルックの表情を読み取るのはとても難しい。驚いているのか呆れているのか、はたまたその両方なのかわからないが、彼は私の目をじいっと見つめたまま黙りこくってしまった。微かに揺れるふたつの目。天窓から差し込む光が当たるそれを見て、私はいつか旅の途中で立ち寄った廃墟で見上げた美しい夕焼け空を思い出していた。
かつてノースウィンドゥという街があったというデュナン湖のほとりに構えられた城は日に日に賑やかさを増している。これまであちこち旅をする中で戦に加勢することは何度かあった。そして今回もまた、歴史の流れに身を任せるまま私は戦火の中にいる。偶然か運命のいたずらか。ここには数年前のトラン共和国で起こった解放戦争で共に戦った者も多く集まっており、ルックもそんな顔見知りのうちのひとりだった。
魔術師の塔から来た風を操る若き魔法使い。彼は解放戦争の頃も今も「仕方がないから」と嫌味たっぷりに言いながらも、彼の師である魔術師の命により約束の石板を守っている。
出陣の際や訓練時以外は極力持ち場を離れようとしないルックはとても仕事熱心だと思う。もし本人に私が思っていることをそのまま伝えたとしたら、きっとひねくれている彼は怒って三日は口を聞いてもらえないであろう。ただでさえ口数が少ないのにそれでは困る。だから私は黙っているのだが。
そんな気難しくも真面目な彼の定位置。城に集う多くの人々が往来する広間の真ん中。そこから見える景色は一体どんなものなのだろうと私は以前から気になっていた。
使命感だけでその場を守り続けられるのか。失礼ながら彼の性格上あまりそうだとは思えなかったから、何か彼が気に入る要素がそこには存在するのではないかと勝手に仮説を立てたのだ。
もしかすると、ずっとずっと座っていたいほど美しい景色がそこには広がっているのかもしれない。
例えば天窓に嵌められたガラスが、ルックの居る場所からだけは違う色に見えるとか。ごつごつしている石畳も、彼の定位置だけは妙に座り心地がいいだとか。城に住みついている子猫が遊びに来るとか。あらゆる可能性を勝手に模索していたが、結局真相を知るにはやはり本人に聞く他ないと思い至り、今日ついに意を決して訊ねてみたのである。しかし彼の反応からするに、私の推測は間違いだったのかもしれない。
「黙ってないで何か言ってよー」
反応が無いのは何か嫌味を言われるよりずっと惨めな気持ちになる。淀んだ気持ちを払拭すべくすっかりだんまりを決め込んでいるルックの隣に腰を下ろして、軽く脇のあたりを肘で小突く。すると代わりに彼が抱えているロッドでコツンと頭を叩き返された。地味に痛いからやめて欲しい。文句を言おうと口を開きかけたが彼が声を発する方が僅かに早かった。
「……別に、『何が』ってことはない。君が今座ってるところと同じ景色があるだけだよ」
さっきの動作とはまるで正反対。ひとつひとつ言葉を選ぶように、丁寧に。漸く彼の口から紡がれた返事は驚きも感動もない、そこら中にありふれた類のものだった。
「そうなの?」
「大体、人間ひとり分くらいずれたところで景色が大きく変わるわけないだろ。考えてみなよ」
確かに。
手を伸ばせばルックに簡単に触れられる位置に私は座っている。即ち、今現在最も彼の目線に近い人間だ。ということは、私が見ているものはほぼ彼が見ているものと同等であると言える。
なんとなく分かっていたことだったが、ルックに言われると余計に説得力があるなと思った。
「まあ……そうかな?」
人間ひとり分の誤差はこの際気にしない方が良いのだろう。今見えているものが、私が抱いていた疑問の答えそのものなのだ。試しに自分に言い聞かせるように唱えてみると、ルックはこくりと小さく頷いた。そして再び本を開き、退屈そうに手元へ視線を落とす。その静かで穏やかな横顔を見ながら
「でもさ、私は好きだよこの場所。色んな人が行き来して楽しいし、日当たりも実はそんなに悪くないし、」
心の中にあることを、私はぽつりぽつり独り言のように語る。途中で彼はぱっと顔を上げてどこか面食らった表情をしていたが、私は気にせず続けた。
「いい眺めだよね、ここ」
言い終えて大きく息を吸い込み伸びをする。室内なので、当然ここに風は吹かない。
「……。……君がそう思うなら、そうなんじゃない?」
だが、静かに返されたルックの答えはひとりぼっちで草原に立ったとき、頬を撫でてくれたそよ風みたいな優しさがあった。
*
何もない。いや、草の匂いと風の音。そしてごつごつした岩と冷たく大きな石板。ただそれだけがそこには在った。
あれからどれだけの月日が経っただろう。旅を続ける中、古い仲間からルックが死んだと聞かされた。
ハルモニア、グラスランド、ゼクセンの間で、ここ十年の中では特に大きな戦があったと言う。彼とはデュナン統一戦争のあとすっかり疎遠になっていたし、その戦があった頃南方に居た私の元には断片的な情報しか流れてこなかったので、まさに寝耳に水といったところだった。
報せを聞いて数週間。私が辿り着いたのは彼の死と一緒に聞かされた、守るべき者が居ない、グラスランドの片隅で野ざらしになっているという石板の地。
周りに何もない、幽霊すらも寄り付かない。そんな風に聞かされていてなんとなく想像はしていたものの、予想以上に寂しい場所だと率直に思った。そう感じるのはきっと十数年前、彼が守っていた場所を私がよく知っているからだろう。
手を伸ばし、恐る恐る石板に触れる。冬はまだ遠いはずなのに、やけにひんやりとしていた。
来る途中で摘んできた白い花を石板の上に載せ、私は静かに腰を下ろす。まさに、かつて彼がそうしていたように。
目に映るは一面の草原と、ほんのり赤く染まり始めた空。それはデュナンの城での彼の定位置とは何もかも違えど、私の心を掴んで離さない何かがあった。
結局本当のところ、彼にはあの場所から何が見えていたのか。何を見ていたのか。いつか時間を置いてまた訊いてやろうと思っていたのに、本人が居なくなった今となっては確認する術がなくなってしまった。これから私はただ日々古くなっていく記憶の中にある彼との会話を時折思い起こし、彼の分まで生きていくだけだ。
それを彼が望んでいるかどうかは、ひとまずのところ置いておいて。
「……いい眺めだよね、ここ」
空を仰ぎ、あの日と同じ言葉を小さく呟く。それと同時に北から一際強く風が吹き抜けた。どこか懐かしい匂いのする、彼が得意な短くそっけない相槌のようだった。