「あ?」
「え?」
微妙に重ならない音声がマンションのエントランスに響いた。
オートロックを開けるより先に開いた自動ドアから出てきた幼馴染の彼女は俺の姿を捉えると、ぽかんと口を開けたまま立ち尽くす。Tシャツにデニムのスカート、足元はサンダルという部活帰りの俺と比べるとかなりラフな格好(もっとも、うちの学校は制服の着用が義務ではないので他校の生徒に比べると幾分かそっち寄りなのかもしれない)だった。
長いようで短い夏休みが先日終わって秋に差し掛かる時期。彼女と最後に話した期末試験の最終日と比べるとだいぶ日が落ちるのが早くなり、外は薄暗い。
「どこ行くんだよ」
そんな中、何やら慌てた様子で出かけようとしている彼女に訊ねる。すると彼女は決まりが悪そうに視線を自動ドアの向こうへと逸らしつつ「学校。忘れ物しちゃって」と返した。
自分にも経験がある。自らの失態を敢えて口にするのは気恥ずかしい。だが彼女の場合、そんな態度を取るのにはまた違った理由がありそうだ。それは良いのか悪いのか、俺にはなんとなく心当たりがあった。
「今から? もう外暗いぞ」
「はあ? 陸だってこの暗い中帰ってきたんじゃん」
「それとこれとは話が違うだろ」
「違くないよ! 全然違くない!」
噛みつくほどの勢いと気迫。誰がどう見ても彼女は苛立っている。恐らくここで「もう暗いからやめておけ」と自分が止めたとて、昔から一度決めたことは譲らない真っ直ぐな性格の彼女の気持ちは変わらないのだろう。彼女とは長い付き合いだ。その辺はよくわかっているし、実際そんなところが――いや、それは今はいい。とにかく、彼女がその気ならば仕方がない。
「……俺も行く」
そう言うと思ったよ。頭の中で軽く受け流して「いいから、ほら。急いでんだろ?」とたった今辿ってきた道を引き返そうと、俺は外に出る。彼女は十中八九予想しなかったであろう俺の行動に何やら後ろでわあわあと喚いていたものの、すぐにそうするしかないと諦めたようで、数歩遅れて俺に付いてきた。俺がそうであったように、彼女もまた俺の、自分に似た性格をよく理解しているのだと思う。
彼女の母親と俺の母親は学生時代からの親友だ。まだよくわからないが、人生のステージが変わると疎遠になる人も少なくないと聞く中、ふたりは就職しても結婚しても俺の父親の転勤に伴って全国を転々としても、現在に至るまでマメに交流を続け、結局今は同じマンションの上下に住んでいる。
そんな理由で隣で相変わらず不貞腐れているひとつ上の彼女とも生まれたときから現在に至るまでの長い付き合いだ。
歳は近いしどこか気質も似ているが、性別は違う。基本的に年に一、二回会う程度の血の繋がっていない親戚のような関係。――だったが、いつからか自分の心の中で少しずつ彼女のカテゴライズされる場所が変わっていっていたことを彼女は知らない。知らなかったと言うべきか。少なくとも、ひと月半前まではそうだった。母親に頼まれてスーパーにたまごを買いに行った帰り。その日、彼女が恋人と別れている現場を見たとこもあって、会話の流れと勢いでそれとなく温めてきた気持ちを俺が晒すまでは。
「陸、ほんと意味わかんない」
一歩半ほどの絶妙な距離を空けて隣を歩く彼女はまだぶつぶつと悪態を吐いている。時折通る車や自転車のライトに照らされる彼女の頬は、部活が終わって学校から帰る頃空を染めていた色に少し似ている気がした。
「何かあったら危ないからだろうが」
ふたりが通う学校から家まで片道徒歩十分。大した距離ではないものの、時間が時間だ。あそこで「はいはい、そうですか」と彼女を見送ってもし何かあったら寝覚めが悪い。あと、あの日以来俺をなんとなく避けているのを感じる彼女と純粋に久しぶりに話す口実が欲しかったのもある。というか後者の方が理由としては大きい。これは彼女には絶対に言えないが。
「そうじゃなくて……いや、それもそうなんだけど」
「意味わかんないの、そっちの方だろ」
いつものはっきりした物言いとは程遠く、彼女は何やら口の中でごにょごにょと声にならない声と気持ちをこねくり回している様子だ。そうさせている原因は確実に自分にある、ということは理解している。だが、彼女には悪いが、正直なところ申し訳なさは微塵も感じていないどころか、寧ろ嬉しさや楽しさのようなものを感じてしまっている。
そう。俺の気持ちと覚悟は、もうとっくの昔に決まっている。あとは〝その時〟が来るのを待つだけなのだから。
「じゃあ、ここで待ってる」
「……うん、ありがと」
どことなくかみ合わない会話をしながら辿り着いた校門の前で、職員室に立ち入りの許可を取りに行く彼女の後ろ姿を見送り、空を見上げる。今まで暮らしたどの場所よりも星が少ない空だが、これはこれで悪くないと思える。
そんなことを考えながら、俺はこの夏の間に身長がまたすこしだけ伸びたことを、帰り道彼女に話すことを改めて心に決めるのだった。