星を見ている


今年は例年より開花が早くて、と饒舌に語る畑の主に気のない相槌を打ちながら、ライアンはぬかるみの残る小径を頼りない足取りでふらふらと往く小さな背中を見やる。
今朝方まで降っていたという雨が嘘のように、頭上には大気圏の遥か向こうまで透けてしまいそうなほどの青空が広がるが、足下には微かに湿気の残った空気がじわりと纏わり付いてくる。
ああ、夏だ、と特に意味も無く心の中で呟けば、花畑の小径の脇に立ち止まり、自身より頭一つ分ほど背の高い満開の花をぽかんと口を開けて見上げるの横顔が何故だか急に眩しく思えてきて、静かにそっと目を伏せた。

高度技術により発達した星の街を出て数十キロほど離れたこのひまわり畑に行こうとが提案してきたのは、ライアンがこの街を発つことになっている日――明後日から数えて丁度ひと月前のことだったと記憶している。
ライアンとはお互いも認める“良き友人”であり、互いの良き理解者であった。
出会ってたった数ヶ月。育った環境も場所も職業も違うが、何故だか妙に馬が合い、連絡を取り、休日が重なればふたりで何処かへと出かけたものである。
しかし出かける場所はライアンの仕事のこともあり、シュテルンビルトの市街地である場合が多く、何時間もかけて移動をしなくてはならない場所へと赴いたことは一度もなかった。
だからの提案には心底驚いたし、それ故か、幼い頃に1度だけ両親と行ったことがあるのだ、と興奮気味に話すの年端もいかない少女のような表情を、ライアンは自身の愛用するカメラに収めたわけでもないのによくよく覚えている。
ついでに、「ひまわりぃ?食えねぇぞ?」と軽い冗談を言った際に小突かれた脇腹の痛みも。
行きたい、連れて行け、一緒に行こう。何度も繰り返しそう主張はするものの、「どうしてだ」といくら問うてもその理由や動機までは喋ろうとしないに最初こそ眉間に深く皺を刻んだ。
が、それもそう長くは続かず、ライアンは自身でも驚くほどすんなりとその正体不明の欲求を飲み込み、そして果てしなく続くかのように思われるほど広大な花畑の入り口に立つ現在に至る。
普段ならばいつまでも味の消えないガムを噛み続けるように口の中に残るであろう想いや疑問。
それらを受け入れられた理由は深く考えずとも、自分にも痛いほどよくわかっていた。

(夏だから。そして、最後だから)

ふたりの予定を照らし合わせてから今日の日まで幾度となく自身の中で呪文のように繰り返してきたその言葉。
ライアンは今一度自身に言い聞かせるように、舌の上で転がした。



「でけーな」
見入られたようにひまわりを見つめるのそばに歩み寄り、視線の先を彼女と同じ場所に合わせると、視界の隅で高く結った髪の毛がぴょこんと跳ねる。
花びらの上をぐるぐると忙しなく動き回っていたミツバチは、やがて2人分の視線を綺麗に避けるかのようにやや耳障りな羽音を立てて他の花へと移っていった。
「ずっと見てて首、痛くねぇの?」
人間ならばきっと満開の笑顔であろう。大輪の花から一向に目を離そうとしないにポケットに手を入れながら尋ねると、は漸く視線を隣に並ぶライアンへと移した。
「だって慣れてるから」
「……は?」
意味ありげに小首を傾げ、唇の端を微かに持ち上げるにライアンは図らずも頓狂な声を上げる。
先ほどまで自分がそうしていたように、口を開けて視線を送るライアンを見てはちらりと白い歯を覗かせた。

「ライアンと並んで話すときとそう変わんないよ」
「………なるほどな」

短いが鋭利で説得力のある言葉。
それを受け取ったライアンは決まりが悪くなり、くしゃりと汗ばむ前髪を掻き上げた。

「…ねえ、ライアン」
「あ?」
「私さ、ここに昔来たことがあるって言ったじゃない?」
「ああ」
くるりと体を捻り、爪先を小径の先へと向け、後ろ手を組みながらは大切そうにひとつひとつの言葉を選びながら言葉を紡ぐ。
ぬかるみを避けるようにゆっくりと歩き出したの背中にライアンも続いた。
「……そのときね、どうしてもやりたかったことがあって」
「やりたかったこと?」
「うん」
花畑をかき分けるように往く歩みは止めず、自分の肩越しにライアンを振り返るの表情は花畑を時折抜ける風のように穏やかだった。
やりたいこと。ひまわり以外何もない、この花畑で。
自分なりに少し考えてみたものの、皆目見当が付かず、ライアンはぐっと眉を顰める。
胸の中にふつふつと沸き上がる、悔しさのようなものを抱えつつ。
降参だ、と告げる代わりに「なにを」と問おうとしたが、それよりもの唇が開く方が先だった。

「ひまわりの花で、花占いを」

言って、少しだけ恥ずかしそうに笑い、はうっすら目を細め、もじもじと指先を摺り合わせる。
一方で、でこぼことした道を歩くのにも段々と慣れてきたらしい。その足取りは実に軽やかだった。

「……なんかちゃんらしいな」
「それ、どういう意味?」
思ったことをライアンが馬鹿正直にそのまま調理をせず口にすると、どうやら気に障ったらしい。膝丈の真新しい白いワンピースを揺らしながら体ごとこちらに向き直り、は声を荒げる。
ふたりきりの花畑に、棘のある声がわんと響いた。
その様子にこみ上げてくる笑いを堪えることができず、ライアンは掌で口元を覆い、悪ィ悪ィとの顔の前で手を振ると、むすっとした表情を浮かべたは空気を抜くような軽い溜息を吐く。
それからやや腑に落ちない表情を湛えたまま、再びライアンに背を向け歩き始めた。
「ほんとはね、今日もここに来るまではやりたいなって思ってた」
「……っ…ふぅん」
「あ、今笑ったでしょ」
「気のせいだって」
「そう?」
踊るようにライアンの方に向き直り、は後ろ歩きで小径を往く。
「あぶねーぞ」「へーきだもん」「子どもかよ」小さく悪態を吐きながら、ライアンは「子どもだよ」と皮肉混じりに返すの隣に並び、歩みを揃えた。
まさに“ひまわりと同じ”。自分と頭一つ分ほどの身長差のあるに歩幅を合わせながら歩くのにも、すっかり慣れたものだった。

「んで、やらねーの?やればいーじゃん。枯れそうなやつで。あ、さっきのおっさんに聞いてみる?」
「…いや、ううん。…もう、良いんだ」
ライアンが隣に並んだことにより漸く前へと向き直ったの声は、どうしたことか。どこか寂しげで、そしてライアンの気のせいで無ければ、微かに震えていた。
そのの表情に、ライアンは見覚えがあった。
一番最近だといつ見ただろう。
嗚呼、そうだ。確か、

(――拠点を移すと告げたとき。だったような気がする)

ふたりは“良き友人”で、“互いの良き理解者”。
理解をするということ、良好な関係を気づくことに於いて、相手のことを何でも知るということは重要である。
しかし、どんなに近しい関係であっても触れられない、触れてはいけないものは、ある。
が時折、忘れた頃に覗かせる寂しげな表情。
理由はわからないし、わかりたい。
しかし、きっとにとっての触れてはいけないものがそれなのだ。ライアンはそう考えていた。
今はそう、考えるしかなかった。

――いつの日か、触れてみたいと願い続けるかどうかはまた、別として。

「なんで?」
一瞬迷ったものの、の胸中を知りたいという想いには勝てず、ライアンは恐る恐る、しかしには伝わらないよう精一杯誤魔化しながら訊ねる。
するとぴたりと歩みを止め、は等間隔に植え揃えられたひまわりに歩み寄り、太陽に向かって誇らしげに咲く花に顔を近付けた。
花に手を伸ばしざらざらとした感触を楽しむように萼をなぞる白い指先。
それを捉えてライアンは何故だか、後悔と愛おしさが入り交じった、ぎゅうと胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
ふたりの間に、少しばかりの沈黙が訪れる。
「………。…だって、占わなくても決まってるから」
花占いって、そういうものでしょ。
その沈黙を破ったのは、の言葉だった。
ぽつんと言って、は立てた人差し指を形の良い唇の前に添える。
ここから先は、秘密。
そう言うかのように。

少しの間の後、よたよたとおぼつかない足取りで小径に戻り、は再び歩き始める。
左右に小気味よく揺れる毛先をライアンは何も言わず、ただ、ぼんやりと眺めていた。

やがてふたりは緩やかな坂を進み、小高い丘の上へとたどり着く。
高いところから見下ろすひまわりはまさに黄金の海のようだった。
懐かしさの混じる草の匂い。
忘れた頃に吹き抜ける心地良い風。
眩しい白。
それを掴み損ねた、汗ばむ指先。
間違いない。
確かに、夏だった。

「星をこぼしたみたい」

ひまわりを彩るたくさんの花びら。それを使って、幼い頃、一体なにを占うつもりだったのか。
今は、なにを占おうとしていたのか。
聞くより先に振ってきた、隣で低くなった空を見上げながら言ったの声。
その声が、その言葉が、その表情が。
遥か遠くの方で、いつまでもライアンの頭の中に響いていた。