よるはみじかし


やや粗野な家主のイメージにそぐわずモノトーンの落ち着いたインテリアで統一されているこの部屋は、とても綺麗ともすごく汚いとも表現しがたい。生活感がほのかに香る、絶妙としか言い様のない程度に片付けられている。
しかしよくよく見れば棚には私の理解の範疇を超えるような工具だったり、何に使うのか皆目検討の付かないような部品だったりが仕舞われているのだが、今は獲物を狙うカメレオンのように上手に部屋に溶け込んで息を静かに潜めていた。

初めて私がこの秘密基地のような場所に足を踏み入れたのは、確か2年前の初夏だった。
鈍行しか止まらない小さな駅から歩くこと20分。へびみたいにぐねぐね曲がった坂を登った先にある六畳一間が彼の城だ。
今はすっかり慣れてしまった初めて見る壁と初めて立つ床と自分を包む初めての匂い。それらに四方を取り囲まれて変にそわそわしてしまう中、高台にあるが故、開け放たれた窓から吹き込んでくる少しばかりの湿り気を含んだ夜風が妙に気持ちよかったのを、今でもはっきりと覚えている。

だるくなって、私は無意味に顔の前に翳していた手をすとんと下ろし、寝返りを打つ。
白く表面がぼこぼことした壁に背を向ける形になると、やたらめったら大きい背中が惜しみなく視界の中心に飛び込んできた。
私が横たわるベッドに腰掛けて、元親がぼんやりと見入っているテレビの音でカムフラージュし、そおっと右手を伸ばす。
ぴんと立てた人差し指で黒いTシャツに浮き上がる背骨を辿れば、肩幅の割りにはほっそりとした首が乗っかる肩がぴくりと震えた。
「もとちか、」
つい先ほどまで飽きるほど、声が枯れるほど呼んでいたその名を私は再び口にする。
からからの口の中に、あめ玉を放り込んだ直後のような甘さが広がった。
私の呼びかけに応じ、肩越しにゆっくりとした動作でこちらを黙って振り返る元親と視線を絡める。
蛍光灯の明かりが逆光になっていて、その表情は些か捉えがたい。
しかしそんな障害にも負けじとじーっと視線を注げば、やがて元親は根負けしたように腰を浮かせて私の方へと身体を向け直し、私の顔に掛かる前髪を指先でぱちんと弾くように払いのけた。
「元親、」
「あ?」
壊れたおもちゃのような私の呼びかけに、何が不満なのか、不機嫌な声で元親は答える。
そして前髪を払った後も尚、私の顔の周りを漂う指先をそっと掴むと、元親は眉間に刻んだ皺はそのままに、微かに唇の端を持ち上げた。
きっと不機嫌な声に理由なんてない。あるとすれば、照れ隠しに似た動機なのだろう。
こう見えて人馴れしていない野良犬のようなかわいさがあるのだから、この男には。
考えながら、私はお腹の底にあったかいものがこみ上げてくるような感覚を知った。
「元親」
「んだよ」
「おなか、すいた」
「………色気もクソもねぇなお前は」
思ったことを包み隠さずそのまま伝えると、元親は呆れたように肩を竦める。
じゃあその色気もクソもねぇ女と寝られるアンタは一体何なの。
そう、苦い笑みを湛えつつ無造作に髪を掻く顔に投げかけようとしたが、あと一歩のところでぐっと喉の奥にしまい込む。
認めたわけでも諦めたわけでもない。野暮だと思った。と言えば良いのだろうか。
元親はどうだか知らないが、私はそういう“ムード”のようなものを大事にしていきたいお年頃なのだ。少なくとも、今、この瞬間は。
頭の中で悪態とも言い訳ともつかない言葉を混ぜ込んで、私はご丁寧に肩まですっぽりと掛けられていた羽毛布団を撥ね除け上半身を起こす。
足だけ布団に突っ込んだまま、布団の上、足下、枕元と、乱雑に散らばった衣類をかき集めると、季節の変わり目に買ったばかりの花柄のスカートが少し皺になっているのを捉え、2ミリほど肩を落とした。
嗚呼、酒が入っていたとは言え、もっと気を配っておくべきだった。
失敗した。

「帰らなきゃ」
沈みかけた気分をどうにか取り直して下着を着け、ひんやりとしたブラウスに袖を通しながら私が言うと、返事の代わりに元親の唇からふうっと細長い息が漏れる。
「寂しいのか」と、からかいの言葉をかけてやろうかとも思ったが、わかりきったことなのでやめておき、ボタンを止める作業に専念した。
何より、寂しいのは私も同じだったから。
ここはおあいこ。勝負は引き分けなのだ。
「元親の家がもっと駅から近かったらいいのに…」
「あぁ?十分だろ。歩ける距離だ。ダイエットだと思え」
「せめて徒歩5分くらいのとこに引っ越してよ。終電で帰らなきゃいけない私のために」
「無茶言うんじゃねぇよ。学生様にゃ金が無ぇんだよ」
皮肉の色が交じる表情を浮かべながら答える元親を横目に、私は皺になったスカートを未だ布団に入れたままの膝の上に乗せて手で伸ばす。
肌触りのいい黒い布団カバーの上で秋めいた小花柄がゆらゆらと左右に揺れていた。
支度できたら言えよ。送ってくから。
半ば吐き捨てるように言い残し、元親はベッドから立ち上がる。
1人分の体重が消えたことにより、不規則な揺れとともにみしみしとスプリングが唸り声を上げた。
私に再び背を向けた元親はテレビの電源を切り、テーブルの上に置きっぱなしになっていたお酒の缶をコンビニの袋に纏め始める。
からんからんと鳴る気の抜けた音を聞きながら追う背中。それは先ほどとの距離感を差し引いたとしても小さくなっているような気がしてならなくて、どうしようもなくなった私は沸き上がってくるくすくす笑いを奥歯で力強くかみ砕いた。
「ねえ、元親」
「用意できたか?」
「ううん。あのね、」
「ンだよ早くしろって。まーた親父さんに怒られっぞ?『不良娘が』って言われっぞ?知らねぇぞ?」
「あのね、今度引っ越すときは、駅からもっと近くて、」
「…ったくまだ言ってんのか。だーかーら、金無ぇってンのが――」
聞こえねぇのか。苛立つ元親が言い終える前に、私は威圧するように顔を近付けてきた頬に手を伸ばし、両手で包み込む。 掌から伝わるのは、ぬるい熱。
胡桃のようなかたい隻眼が私の手中で微かに揺れ、驚きの色を交えたそれに、私はふっと目を細める。
数センチだけ開けられた窓から吹き込む風は、寂しくて、冷たくて。あの日とは違う、すっかり秋めいた、澄んだ匂いがした。

「ふたりで住んでも大丈夫な広さのところが、いいね」

瞬き3回分ほどの心地良い沈黙の後、どちらからともなくお互いの唇に蓋をするように重ねる。
浅い夜には深すぎる口づけの後、「早く下履け」とぶっきらぼうに窘める元親の耳が微かに紅くなっていたのを、私は見逃しはしなかった。