ごーごーと唸りを上げるドライヤーから発生する熱風と、先の尖ったものでつつけば簡単に折れてしまいそうなほど白く細い指先が水分を含んだ私の髪を(文句を言ってやる程ではないが)やや乱雑に撫でる。それになされるがままになっている非常に退屈な私の視線の先にあるのは、天井まで届くほどの高さの本棚だった。
この勝手知ったる、自分の家の隣の家にある幼なじみの部屋(もはや私の部屋と言っても過言では無い)にコイツがやって来たのは、確か私が小学校3年生くらい、即ち持ち主が4年生くらいの頃だったように思う。
来た当初は学校の図書館でしか見ないような珍しい図鑑や百科事典、可愛げのある児童向けの文庫本で彩られていた…と、おぼろげながらに記憶している。しかし、文字通りの本の虫である持ち主の成長と共に中身はころころ入れ替わり、今ではタイトルだけなんとなく聞いたことがある文学作品から笑ってしまうほどの厚さの洋書まで、隙間無くびっちりと、恐らく持ち主にしかわからないであろう分類のされ方で収められていた。(いや、私が理解できないだけかもしれないけど、それは認めたくない。なんとなくね。)
本来本棚とは本を収納するものなのだから別に可笑しなことではないし、本棚としてもその職務を全うできることは本望であろう。しかし少しくらいぎゅうぎゅう詰めにされている本の気持ちになってみたらどうか。
せまいよぉ。くるしいよぉ。もっと広いおうちにひっこしたいよぉ。
心を落ち着かせ、耳をすまそう。どうだろう。そんな声が聞こえてこないだろうか。私には聞こえる。ような気がする。
…なんてことを高校生の頃、今現在ドライヤーを右手に持ち、相も変わらず忙しなく左手の指を私の髪に絡ませ滑らせる、幼なじみでこの部屋と本棚の主である竹中半兵衛に言ったところ、「君の考えることは本当に偏奇だね」と心底腹の立つ表情を湛え、ふんと鼻で笑いながら言われたのをふと思い出す。
はてさて、偏奇なのは一体どちらだろう?私に言わせれば、ほぼ週1くらいのペースで仕事の合間にお気に入りだという古書店から紙袋いっぱいの古い本を買って会社に帰って来るあんたの方が何十倍も何千倍も何億倍も偏奇に思えるけど?ヘンキっつーか最早化け物かな?古書おばけかな?って思わざるを得ないんだけど?
――ってな具合のことを考えはするが、大変悔しいことに馬鹿にされるのは目に見えているため、結局私は何も言わず、喉まで出かけた欠伸と共に彼への不満をぐっと飲み込むのだった。
自分で言うのもなんだけど、救われない。私。
「ねぇ、半兵衛ぇ~まだぁ~?」
不満がゆっくり食道を通って胃の中に到達した頃、退屈に耐えきれなくなった私はドライヤーの音にかき消されない程度に声を張り上げながら言う。
すると半兵衛は私の後ろ髪を梳いていた左手をぴたりと止めた。
「…人に乾かさせておきながらその態度はどうなんだい、?」
「待ちくたびれたよぉ。眠くなってきた」
「良いご身分だね」
「よきにはからえ」
「全く、君って子は」
聞き分けの無い子どものような態度をとる私(勿論わざとである)に、轟音にギリギリかき消されない程度のやや頼りない声でぼやく半兵衛だったが、すぐに「あと少しだから」と、私が冬の朝のお布団の中くらい大好きなあったかい声で付け加える。
昔を思い出したり、小さな不満を抱いたり、怒ったり。
退屈を理由にし、急流を下るように忙しなく流れていた私の頭の中の思考の水は、これを合図に漸く優しげなとろみを帯びた。
二十数年もの間通ったこの部屋は、本棚だけではない。重ねた月日の分だけ変わった。
カーテンだとか、ベッドカバーの色だとか、消臭剤の匂いだとか、壁にかかっている洋服だとか。挙げていくと本当にキリが無いほどに。
しかし、そんな中で変わらないものも確かにあって。…いや、ある気がして。
あって欲しいと、思ったりなんかして。
雰囲気というか、勿論主が変わらないからってのもあるんだけど、ううん、何て言うか。具体的に言葉で言えと言われると大変困ってしまうのだが。
――そう、誰に問われたわけでもないのに答えに詰まってしまうという不思議な体験を自ら進んでした私は仕方なく、こてんと力なく首を前に倒す。
すると間髪入れず、半兵衛は大層驚いた様子で声を荒げた。
「…っ、ちょっと!本当に寝ないでくれよ?」
「寝てないよ」
「じゃあ乾かしにくいからやめてくれないか、それ」
「えぇえ」
「やめて」
子どもの悪戯を窘めるように言って、半兵衛は私の背後から手を伸ばし、両方のほっぺたをむぎゅうっとサンドし頭の角度を元の位置へと無理矢理戻す。
突然のことにびっくりして「いたい!」と声を上げてしまったが、本当は痛くなんてなかったのが可笑しかったのと、右手に当たるドライヤーがとてもうるさくて、ついでに頭蓋骨に直接響き渡る振動がくすぐったくて、少し笑ってしまったのだった。
「…半兵衛の手は、あったかいね」
暫くして、頬から音も無く離れていった両の手のもたらした熱を思い出しながら言うと、半兵衛は「はぁ?」と、お腹の底から不思議そうな声を返した。
「…いいや、ドライヤーの所為だろう」
「そうかな」
「そうに決まってる。君はそんなこともわからないのかい?」
「わかんないや」
「そうかい」
半兵衛はくつくつと、夜空に瞬く星のように心地の良い声で笑う。
それがまた、ふたりの間に流れる空気によく映えると、私は先ほどに比べると格段に性能の下がった頭で一生懸命考えていた。
カチリという乾いた音と共に、長らくこの部屋を満たしていた轟音が止む。
傍らにドライヤーを置く半兵衛の右手を慣れた手つきで探り当てた私は、そのまま自分の頬にぴたりと当てた。
半兵衛の、昔一緒に行ったお祭りで口を開けながら見ていた飴細工のように繊細な手は、私の程よい(ここが重要)弾力のある頬にこそ相応しい。私は密かにそう思っている。
「、眠い?」
「ねむい」
問いかけに食い気味に返すと、半兵衛は今度は声を上げて笑った。
「今日の晩ご飯何かな」
「さぁね」
「おばさんのご飯はなんでも美味しいから好きだ」
「そう」
「うん。だからね、私この家の子になりたいってずっと思ってたよ。20年くらい前から」
「それは奇遇だね。僕も君をこの家の子にしたいってずっと思ってたよ。22年くらい前からね」
「うん、しってる」
頬に当てたまま喋っていた手を解き、私はお尻を浮かせて十数分ぶりに半兵衛の方へと向き直る。
ずっと床に当てていたせいだろう。じんじんとした微かな痛みが走るのを感じながら、私はぴんと立てた右手の人差し指で半兵衛の輪郭をなぞった。
部屋の電気に照らされる長い睫毛がゆらゆら揺れて、とても綺麗で、でも何故だかちょっぴり寂しくて、長い夢を見ているときのような感覚に陥った。
雪のように白い半兵衛の肌は、気のせいだろうか。頬の部分だけ微かに赤みを帯びている。
それを指摘しようかと思ったが、なんとなく、言わないでいた。今は不思議とそうしておきたい気分だった。
「だから、幸せに、してね?」
今更聞くまでも無い。我ながらいじわるで気まぐれな問いかけを私は試みる。
ぱち、ぱち、ぱち。
数度の瞬きの後、その答えの代わりに半兵衛がくれた気が遠くなる程長い口づけの向こうには、今も昔もこれからも、決して変わることのない宝石が控えめにちらちらと瞬いていた。