ひとつまみ分の夜


甘くて苦い。少しだけ息苦しい気もする汗の匂いが微かに立ちこめる室内は妙な情感を放っている。
それから逃れようと試しに視線を部屋の隅から隅へとなぞるように滑らしてみても、必要最低限の家具以外置かれていないこの部屋は私に一切の安らぎも与えてはくれず、気を抜こうものならば飲み込まれ、胸まで掛けられている布団の中にずるずると潜り込んで掌で顔を覆ってしまいたくなる程度には恥ずかしくなってしまう。
――でも実際のところ自他共に認める図太さを持つ私はそんなことは絶対にしないし、仮にしたところで今現在私の隣でしわくちゃのシーツの上に横たわり、見えない釘でつなぎ止めるかのような鋭い視線をこちらに向け続ける三成に手を退かされるのがオチであろうということは、よくよくわかっているのだが。

「………」
「………」
羊毛のような柔らかさも角砂糖のような甘さもなく、ただ漫画みたいに今にもばちばちと火花が散り始めそうなほど熱く見つめ合っている私達の間には言葉も音も無い。
まるで、ふたりだけ海の底に居るみたいだった。
私は徐に布団の中から左腕を出し、三成の少し窪んでいるようにすら思える肉のない右頬に添え、薄暗い部屋の中で不思議な色で輝く星の欠片みたいな瞳をじっと覗き込む。
骨張った三成の顔を指先で軽くとんとん叩きつつ、『自主的なにらめっこでもやっているのかな?』と皮肉のひとつでも言ってやりたくなるようなその顔を下から覗き込むようにすると、事が終わってからずっと瞬き以外の動きを見せようとしなかった三成がここで初めて身じろぎをし、シーツに新たな波を作った。

「三成」
「なんだ」
「……………ふふっ」
はらぺこの犬に餌をあげたときみたいに私の呼びかけに勢いよく食いついてくる三成が可笑しくて、耐えられずに吹き出し顔を僅かに逸らす。
すると三成は私の視界の隅っこで、元から不機嫌そうに寄せられていた眉を更に寄せ、サスペンスドラマの最後の方に出てくる断崖絶壁みたいな溝を眉間に作った。
。何が可笑しい」
ご機嫌斜めなのは顔だけではない。かさかさした唇から紡がれるその声は、怒りと不満、どっちもが丁度良い見事な割合でミックスされている。
それが更に私のツボを押さえてしまい、年甲斐も無くお腹を抱えてけたけたと笑ってしまった。
常にぶすっとしていて、うまく他人に自分の思いを伝えることができず、あるときには意図せず他人との間に高く立派な壁を創り上げてしまうほどの不器用さを持つ三成。
だが、ごくたまに、とても“器用”な表情を作り出しそれを露わにすることがある。
丁度、今のように、だ。
それと出会う瞬間が私にとってはとても幸せで、面白くて、可笑しくて、興味深くて、そして愛おしくて堪らないのだった。
仙人のような三成のように例外も在るが、基本的に人間は欲深い生き物である。
例に漏れずそれに該当する私も、「もっと、もっと」と自分の未だ知らない三成のことを知らず知らずのうちに求めてしまう。

少しずつなんて待てない。今すぐに、全部が欲しい。

私の胸の奥深くに隠しているその気持ちを、試しに本人に伝えたとしたら、今も不思議そうな顔をして私の顔を覗き込む三成は何と言うだろうか。
怒るだろうか。呆れるだろうか。笑って…はくれなさそうだな。だって三成の笑顔はとても貴重だもの。そう易々と見せられてしまってはこちらが困る。
そんなことをぐるぐる考えながら、不器用で器用な三成の肉のない頬からそっと手を離す。
すると、三成の寄せられていた眉がまるで波が引いていくように離れていった。
「…ごめんごめん。三成があまりにも可愛いもんだから。つい」
「……それは褒めたつもりか?」
「褒めてるに決まってんじゃん」
私が布団の中で大袈裟に胸を張って見せると三成は「かわいい、」と心底納得のいかなさそうなくぐもった声で私の言葉を反復させ表情を陰らせる。しかしそれ以上は続けることなく、目をうっすら細め、頭の下に入れていた左腕を少しだけ動かした。
その動作が眠気を伝えることであることをなんとなく悟った私は布団の中から手を伸ばし、サイドテーブルのスタンドの灯りを消す。
ぱちんという弾けるような音と共に上質の遮光カーテンが力を存分に発揮し始め、一瞬にして闇に包まれた部屋は先ほど以上に静かで、深くて、耳の奥がきーんと鳴った。
どうやら私の予想は間違っていなかったようで、三成は目を伏せて完全に寝る体勢に入り始める。 それに構うこと無く、私はゆっくりとした動作で布団の中に潜り込み、三成の薄っぺらいようで実は逞しい胸板に手を添えて、右耳を当てた。
驚いたように一瞬ぐらりと揺れた三成の身体が面白くて、そしてそれからすぐに私の頭を抱え込むように回された腕が心地よくて、私は再び笑みを零す。
もぞもぞと動かされる足先と足先が布団の中で触れ合って、ちょっとだけくすぐったかった。
「三成」
「今度はなんだ」
「三成の心臓の音がする」
「……当然だろう」
顔を上げ、白い紙に墨を一滴垂らした時のような声で私が言うと、三成は先ほどとは比べものにならないほど穏やかに答える。
それは私が求める“知らないもの”ではなくて、よく知る、求めずとももたらされる、私の愛して止まない声だった。
私のつむじのあたりに顎を乗っけて、三成は大きな手で頭を撫でてくれる。
そのリズムは鼓動とは裏腹に不規則で、ぎこちなくて、まるで三成そのものだなあ、なんて自分でも笑っちゃうようなことを思ってしまって。少しだけ胸の奥がぎゅうっと締め付けられるようだった。

「おやすみ、三成」

ゆるゆると沈み始めた意識の中、かたい胸板に顔を押し当てたまま呟いた声は三成に届いたかどうかわからない。
まあ、でも届かなくてもいいかな。だって、何度だって言えるチャンスはあるんだから。明日も、明後日も、その次も。
そんなことをねじが切れかかった脳みそで考えつつ、頭の先から爪先まで、三成に隙間無く包み込まれていることへの幸福感を両手いっぱいに抱き、私はじんわりとした暖かさを持つ瞼を閉じた。