ぎっ。がちゃ。………ばたん。
来訪者の存在を知らせる調子のいい一連の音が、私を浅い眠りから掬いあげる。
目を開けてるのか閉じているのかさえわからなくなるような、部屋中を覆い尽くす深い闇。
夢と現の狭間みたいな世界で、私は無意味な瞬きをただひたすらに繰り返す。
ちりちりと微かに痛む瞼が重い。
手の甲でその違和感を払拭するように軽く擦り、回らない頭を必死に働かせながらなんとか枕元に置いた目覚まし時計に手を伸ばす。
めいっぱい顔に近付けて薄目で睨むようにして見た盤面では、銀色の2本の針は午前3時ちょっと過ぎを指していた。
普通ならば、ひとり暮らしの女の家にこんな丑三つ時も遠に過ぎた時間に来客(しかも鍵を開けて許可なく入ってくるような無礼な輩)なんて有り得ないし、たぶんというか絶対に有ってはならない話である。
友人?家族?いいや、合鍵なんて渡してないし、全く心当たりがない。
そうだとすると、考えられるのは泥棒か、強盗か。或いは――?
どう頑張ってもピントが狂う。そんな私の寝起きの脳裏を過ぎるのは物騒な考えばかりだったが、その反面、不思議と焦りや恐怖はない。それどころか私自身、“不思議”と惚けながらも本当のところはその理由がわかっていて、尚且つ心は新緑の季節の木々のように揺れ動いているのであるから困りものであった。
ベッドの上で横たわったまま潜るには些か深すぎるテーマだったかもしれない。
私が睡魔によってとろとろに溶けた脳みそが詰まった頭で十分に考える余裕を一切与えることなく、先刻の泥棒(仮)が立てるとすとすという軽い足音はどんどんこの部屋へと近づき、一番大きくなったところでぴたりと止む。
はて、と心の中で首を傾げる私の耳に届くのは、ビニール袋と冷蔵庫の開閉音。それらを閑話的に挟んだ後、かちゃりと視覚的にも聴覚的にも確信的な音を立て、私の視線の先にあるドアノブが傾いた。
音を合図にゆっくりと入ってくる、心地よい空気とバニラエッセンスのようなアクセントになる、少しの苦さが含まれた匂い無き香り。
この真夜中と明け方の真ん中の来訪者は鍵開けの能力に長けた泥棒でも強盗でもない。
既にあった確信を更に裏付けるものを得た私は、心当たりのありすぎる、この部屋の合鍵を唯一持つ者の名前を掠れた声で呼んだ。
「…左近?」
「はいっ!」
どうやら私の推理は正しかったようで、ドアの前に控えめに佇むひょろっと背の高い黒い塊は非常に歯切れのいい返事を寄越す。私がするすると力が内から指先へと抜けていくような感覚を知る一方で、灯りのない部屋の隅に、左近がどさっと荷物を置く鈍い音だけが後から遅れて響いた。
『今日、やっぱ行けそうにないっす。スミマセン』
左近からそんなメッセージが届いたのは3時間ほど前。日付が変わる一歩手前だった。
普段よりも長い時間をかけて入った風呂から上がり、ずっと切りたいと思いつつも伸ばしっぱなしになっている、ずるずる長い髪を乾かしていた最中、テーブルに置かれた電話の画面に浮かんだ左近からのことば。
ゴーと虚しく鳴るドライヤーの音に、八つ当たり的に耳を塞ぎたくなる衝動を覚えながら、私は「やっぱりか」と虚しい独り言を零す代わりに細くて長い溜息をひとつ吐いた。
左近は私の1個下。同じ会社に勤める、目に入れても痛くない、かわいいかわいい後輩である。
いや、正確には「だった」と言うべきか。
私達がただの先輩と後輩から今のように、お互いの家を頻繁に行き来するような特別な関係になったのは約半年前のことである。
きっかけというきっかけは…何だったっけ。
左近が入社して初めての飲み会で、左近が飲んでいるお酒の色(夏の空みたいな青だった)に私が食いついたことだったか、好きなバンドの話で意気投合したことだったか、その後CDの貸し借りをするようになったことだったか、笑ったときにくしゃってなる目尻がかわいいなって思ったことだったか、私が傘を忘れた日、左近が駅まで送ってくれた時に「さんが、好きです」って、耳まで真っ赤にしながら言ってきたこと、だったか。
思い出そうとすれば芋づる式に甘酸っぱい“それらしきもの”が次々と飛び出して来る。まぁ、でも、恐らくはその全部なのだろう。
人生とは、小さきことの積み重ねなのだから。…うん、ちょっとこれは大袈裟だったかな。
何はともあれ、かくして所謂“恋人同士”となった私達は我ながらそれなりに上手くやってきた。
具体的にどうって言われると困ってしまうのだが、月並みなカップル(この言い方も我ながらどうかとは思うけど)のように休みの日にはふたりで仲良く出かけたし、左近の治らない(というか治す気のない)賭博癖を巡って多少喧嘩もした。そして今日のように急に入った飲み会によって予定をドタキャンされたりも。
少し…いや、結構、かなり残念だけど、お付き合いならば仕方ない。
これがもしも若い大学生のカップルだったら「私と飲み会、どっちが大事なのよ」とヒステリックに叫んでみたり、電話をかけてさめざめと泣いて困らせてみたりもするのだろう。これは勝手な予想だけど。
でも私達は違う。仕事をしている、立派な大人と大人。人間と人間。
そう自分に自分で言い聞かせ、我慢というものを小学校に入る前くらいには覚えていた私は誰に見せるでも無く、うんうんと深く頷く。
胸の隅にぽっかり空いた穴を手で隠しながら。
そんなこんなで、本当のところは何一つとして了しても解してもいないのに、私が心と切り離された頭に浮かんだ『了解』の二文字を打ち込んだのは、髪の毛がすっかり乾き終わった後だった。
そういえばその後、何回か返信が来てたような気がするけど、結局読んでなかったな、と今になって思う。
何だか読む気になれなくて、そのまま布団に入ったのだ。
今になって気になってきて電話を見て確かめようと思ったが、もうその必要はない。目の前に送り主がいるのだから。
重たい頭を持ち上げて、私はいつの間にかベッドの近くまで来て床に座っていた左近に身体を向けた。
「終電、間に合ったの?」
顔を見て話したい。その一心でもぞもぞと布団から上半身だけ這出てサイドテーブルに置いたスタンドへと手を伸ばす。
心臓がばくばく鳴って五月蝿い。でも、悪くはない。そんな奇妙な心持ち。
微かに震える指先によって点いた暖色系の灯りが、気持ち、いつもより疲れた左近の顔をぽっと照らした。
「それがぁ、聞いてくださいよぉ!ギリギリ、ほんっとギリギリアウトっすよ!?いやぁ、居酒屋出てからチョー走ったんだけどなぁ~やっぱダメだったわぁ」
「……じゃあ、」
どうしてアンタはここにいるの?と、「高校生んときはもっと足速かったんだけどな」だの「やっぱ煙草、やめようかな」だの、自分自身への言い訳をつらつら並べる左近にそう問いたかったけど、寝起き故か、からからの喉の奥に引っ掛かりうまく言葉が出てこない。
それをなんとなく察したのか、はたまた偶然か。
左近は「よいしょ」というかけ声とともにベッドに腰掛けて、先ほどより近くなった距離で話を続けた。
「いや、なんかぁ、終電に目の前で行かれちまったことによって俺ん中で変なスイッチ入っちゃってぇ?もしここで諦めてさんに会えなかったら、神様の思うツボだなって思って?じゃあ俺はそれに逆らっていきてぇなって思って?」
「…ごめん、何が言いたいのかさっぱりわかんない」
彼と付き合い始めてわかった。恐らくやめられないギャンブル同様、これも癖なのだろう。
興奮気味に話すとき、左近はどの花に止まろうか迷うちょうちょのように手をひらひらと動かす。
それを右へ左へ、必死に目で追いつつ、鋭い相づちを打つ。
すると左近は子どもが悪戯を思い付いたときのようににやりと笑い、私の目と鼻の先で指の細さの割りには大きな掌を掲げて見せた。
「5駅分!歩いてきましたっ!」
「…………」
「えっ、何その反応」
「………左近は、おかしいよ」
「やっぱりィ!?実は俺も今話しながらそう思ってたトコ」
漫画みたいにぱちんと指を鳴らし、声を上げて左近は笑う。私たちは夏の反対側にいるけれど、その声は、その空気は、茹だるような暑さの中の並木道のように賑やかだった。
ひとしきり笑った後、詰めて?と子猫が親猫に甘えるように言った左近は私が入っている布団の中に潜り込む。
睡眠はきちんと取りたいと思い、奮発して買ったセミダブルのベッドも大の大人ふたりが寝るには少しだけ狭かった。
「お風呂、入る?」
ふたり分の体重を受け止めて、ぎしぎし鳴くかわいそうなベッドの声を聞きながら、私は隣で落ち着くポジションを求めて身じろぎをする左近に問う。
「ああ…いや、朝でいいわ。……あ、入った方がいい?」
「ううん。朝でいいよ」
本当は入った方が良いと思う。主に衛生的な問題で。でも、小さな灯りに照らされる寒空の下長距離を歩いてきた眠たげな眼を前にすると、私も甘やかさざるを得ないのであった。
こんなことをしていると、私の同僚兼彼の怖い怖い上司にふたりまとめて仲良く叱られてしまいそうだけど、今はいい。だって、今この世界には私と左近。ふたりしかいない。何も邪魔するものなんてないんだ。
「さん、俺が来れないって聞いて寂しかった?」
「うん。寂しかったよ」
横たわって頭だけを器用に浮かし、枕代わりにと私が渡したクッションの位置を整えながら問いかける左近に返しながら、私は外の匂いがする細い首に腕を回す。
すると左近は目を大きく見開いて心底驚いたような顔をした後、後ろめたいことがあるわけでもなかろうに、バツが悪そうにゆっくりと私から視線を逸らた。
いやいや、自分で聞いておきながら照れてどうすんのよ、アンタ。
冷静なツッコミを入れつつも、左近の反応がとても面白くて、可愛くて。
思わずこぼれ出た私の笑い声に釣られるように、やがて顔を伏せていた左近も再び顔を上げ、くつくつと喉を鳴らした。
「でも、もう寂しくないよ」
灯りを消し、再び闇に包まれた部屋。均等な暖かさに包まれながら睫毛が触れそうな距離で私が言うと、左近は丸まったような笑顔を見せた。
「そりゃあ良かった」
「うん、良かった」
顔を見合わせ、頷き合う。そして瞼を閉じると同時にどちらからともなく重ねた唇が暖かな熱を産んだ。
「…俺、許してもらえないかと思ってプリン買って来たんスから。コンビニのだけど」
触れるだけの口付けの余韻に浸っていると、左近は再び照れたように笑う。布団の中でもじもじと指先をこすり合わせる気配がした。
「ほんと!?やったぁ」
「だから、これで今回のことは帳消しってことで。ひとつ」
よろしく頼んますと、左近は大きな犬がじゃれつくようにして私の背中に手を回す。
つい先程まで外にいた人とは思えない、いつもより心なしか温かい気がする掌が私の肩甲骨の辺りを暫く行ったり来たりして、それから何の前触れもなく、私の身体をぎゅうっと強く抱きしめた。
ここから左近の顔は見えなかったけれど、きっと私の大好きなくしゃくしゃの笑顔を湛えているに違いない。
見ると思わず「仕方が無いなぁ」って言いたくなるような、私を駄目にする、私が知る限りではこの世で一番幸せな笑顔を。
私は左近に甘い。
しかし、一方で、終電を逃して5駅自力で歩いて会いに来て、その上プリンを献上する程度には、左近も私に甘い。
例えるならば、ケーキとおまんじゅう。上白糖と三温糖。
見た目は違うけど、種類は同じ。
何てうつくしい、フェアでイーブンな関係だろうか、なんて年甲斐もなくメルヘンなことを思う。
そんな至極どうでもいいことを考えながら、器用な私は同時に冷蔵庫の中にあるプリンに思いを馳せる。
どこのコンビニのやつだろう。プッチンするやつかな。焼いたやつかな。ちょっとだけお高い、とろとろのやつかな。
でもやっぱり、今はいいや。
プリンなんてオマケが無くたって良かった。
私が何よりも欲していたものが、今目の前にあるんだから。
「明日、一緒に食べようね」
「えっ、さんの分しか買ってねぇよ?」
「いいよ、私の半分あげるから」
「マジ?やっりい」
大げさに声を上げて喜ぶと、左近は力を入れていた腕を緩め、もう一度私にキスをする。
さっきは気づかなかった、微かに煙草のにおいがする苦いキス。
ちょっとばかしお互いに甘すぎる私たちにとっては、このくらいの苦さの隠し味がおあつらえ向き、なのかもしれない。
そんなことを月と一緒にだんだんと沈んでいく意識の中で、考えていた。
inspired by:うれしくって抱き合うよ(YUKI)