願い事をあげる


そういえば、今年の冬はまだ雪が降っていない。

果てしなく続くようにすら思える神社へと続く石段をとぼとぼ登りながら私はふと考える。頭上には不思議そうに小首を傾げているようにも見える木々。足下には時折ぽきりと軽快な音を立てる小枝と、風が徒に運んで来る砂埃。私を包むのは、まごうこと無き冬である。どこからどう見ても冬なのに、今年はまだ雪が降っていない。私の記憶が正しければの話だけど。新しい年を迎えて2週間とちょっと。去年は年末くらいに一度ちらちらと降っていた気がする。でも今年は降っていない。もしかすると、私が気付かない間に降ったのかもしれない。だがそれはそれで何だか冬に置いてけぼりにされたようで悔しい気持ちになるから、あまり考えたくはない。大人になんてなりたくなかったのに、うっかり気を抜いたばっかりになってしまった今では早朝の交通機関の乱れや雪掻きの手間のことなんかを考えると降雪も手放しでは喜べない。それでも積もればちょっとは嬉しい。年端もいかない子どもみたいに、わくわくする。もしもそんなことを、亀のようにのろのろ行く私とは反対に、軽い足取りで石段をすいすい登る、真面目が服を着て歩いているような三成に言ったとしたら「降らんでいい」と一蹴されそうだけれど。それでも構わない。私は雪が見たい。私の頭の中は雪のことでいっぱいだった。
「…っはぁあ」
目的地が近づくに連れて浅くなる呼吸。私はそれに比例して重くなる足を止め空を仰ぐ。靴底すらすり抜けて伝わってくる石の冷たさに思わず身震いをする。それとは対照的に、雪どころか雨一滴も落ちてきそうにない晴れ渡った空は、西の方がじんわりと朱の絵の具を滲ませたように染まっていて、とても暖かい、眠くなるような色をしていた。
、何をしている」
歴史を感じる石段の数段先を往く三成が私の方を振り返りながら不機嫌そうに問う。私は視線を三成の厚めの上着を着ていてもわかるほどに薄ぺらい身体へと戻し、ふたりの頭上を悠然と游ぐ鳶の群れのような口調で返した。
「空見てた」
「…早くしろ、日が暮れる」
「えぇえ~ちょっと休もうよぉ。疲れた」
「下手に足を休めるから疲れる。ひと思いに絶えず足を運べ」
「…鬼」
冷たい空気に包まれた頬を膨らませる私を見て、三成は「ふん」と鼻から抜ける、細くて重たい息を吐く。それから私に背を向け、再びこの街を見下ろすように佇む大きな鳥居へと向かい、規則正しいテンポで足を進め始めた。
一体頂上の神社まで何段あるのだろう。気になって数えていた石段も、40を超えた辺りからわからなくなって数えるのを止めてしまった。山の縁に沿って這う蛇のように続く石段を登る前、正直に言うと、心のどこかで「ま、余裕だろう」と私は高を括っていた。その根拠の無い自信は一体どこからやってきたのか、10分くらい前の自分に聞いてみたい。一段登るごとに重くなる2本の足を恨めしく思う。日々のデスクワークに慣れきった自分の身体が情けない。数々の淀んだ思いを体内から吐き出す代わりに、私は今日何度目かもわからない深い深い溜息を吐いた。
「…ねぇ、三成」
「なんだ」
「今年って雪降った?」
先程と比べて更に遠くなった三成の背中へ、私は問う。若干の距離はあったがその声は辺りを包む静けさに助けられ、思いの外鋭く響いた。三成は空気を切り刻むように進めていた足を止め再び私の方を振り返り、眉間と鼻筋に皺を作り何やら考える素振りを見せる。それからややあって、黒いスヌードの影から覗くお世辞にも血色が良いとは言えない唇を開いた。
「……。…降っていない」
「そっか。やっぱそうだよね」
やはり自分の記憶は正しかったようである。冬に取り残されていたわけではないという確信を三成から得た私は胸中に浮かんだ柔らかな感情を撫で下ろし、数度こくこくと頷くと、先程に比べて少しだけ軽くなったような気がする足を不思議そうな顔をしている三成の元へと進めた。
「降らないのかなぁ今年は。暖冬だって聞くよね。そこそこ寒いのに」
「降らなくとも構わん。積もったら困る」
「…まぁそうだけど。でもなんかつまんなくない?」
「雪が降らないとつまらんという貴様の基準が私には理解できん」
「あーはいはいそうですかそうですか」
ああ言えばこう言う。大体想像通りの答えが返ってきて、私は適当にぐるぐる巻きにしたマフラーで緩む口元を咄嗟に隠す。思ったことがすぐ顔に出てしまう私が言うのもなんだけど、三成はとてもわかりやすい。しかしながら本人はどうやらそれに気づいていない(というか認めたくない)ようで、そこがまたかわいらしいとも思う。考えながら、鈍足に鞭打ち順調に距離を縮め、私は漸く三成と同じ石段へと辿り着く。年末に私があげた手袋を律儀に付けた三成の左手を取りつつ来た道を振り返れば、橙色に染まるミニチュアのような街が眼下に広がっていた。
「…あっ、あれ。あの高い建物がたくさん並んでる辺り、何だろう。マンションかな」
「知るか」
「ええっ、自分が住んでる街なのに?」
「知らずとも暮らしに支障は来さない。貴様こそ、それを知ってどうする」
「いいや、知ってどうこうするわけじゃないけど。なんか、ちょいって横から押せばドミノ倒しができそうだなって思って」
「………」
「……いや冗談だよ?」
「…行くぞ」
一歩踏み出すと同時に三成は繋いだ手を今一度気持ち強めに握り直す。もこもこの布越しに伝わる体温はただひたすらに生ぬるく、冬の夜空に瞬く星のようにうつくい銀髪から覗く三成の耳の先は寒さのせいか、はたまた単なる気のせいか、少しだけ赤くなっていた。

「何をお願いするか、三成はもう決めた?」
ゆっくりと、しかし確実に鳥居は近づく。長きに渡る私たちと石段の戦いにも少しずつ終わりが近づいてきた。繋がれた手が解けぬよう、指と指をひとつずつ丁寧に絡めながら私は聞く。すると三成は間髪入れず、この上ないほど真面目な顔で「豊臣の永劫に渡る繁栄を」というまさに百点満点、模範解答としか言いようのない返答を寄越し、私は図らずも、そして失礼だと思いつつも笑ってしまった。
「……う、うん。仕事は大事だよね。仕事は。わかる」
「笑うな。何よりも優先すべき事柄だ。貴様も願え」
「ええぇ。…うーん、まぁそれはそれとしてぇ…折角だし、もうひとつ!自分のことをお願いしてみてもいいんじゃないかなぁ~なんて」
こんなに頑張ってここまで登ってきたんだし、1個くらいオマケでお願いしてもバチは当たらないんじゃあ?っていうかそもそもお願いはひとりひとつってルールは無いよねぇ。なんとなく、暗黙の了解っぽくなってるけど。これ何でだろうね。みんな謙虚だよね。なんかおっかしいの~三成もそう思わない?どう?私がのんびりと、お風呂で鼻歌を歌う時のようにそんなことをゆらゆら語っていると、三成は何の前触れもなくぴたり立ち止まる。勢いよく回っていたコマが突然止まるように、それは本当に突然としか言いようがない程に突然のことだった。あまりにも突然、そして不自然すぎて「ぐわっ」私はカエルが潰れたような声を上げて前につんのめりそうになる。しかし結び目から生まれる後ろに強く引かれる力がそれを許さなかった。「もう!あぶないなぁ」体勢を整え、文句を言いつつ早くなった鼓動を抑えるように胸元をとんとんと叩き、背中を丸めて三成の顔を覗き込む。すると彼は私の隣で眉根を寄せ、それは険しい断崖絶壁のような表情を浮かべていた。
「どしたの三成」
「自分のこと…?」
「えっ?うん。自分のこと」
「それは、私自身に関することか?」
「そうそう」
「……………………特に無い」
「うっそぉ!?」
「私は嘘は吐かん」
「知ってるけど……え…なんかあるでしょ、ひとつくらい。『美味しいもの食べたーい』とか『足のむくみが取れますようにー』とか…あ、あと『雪が積もりますように』とか…」
「それは全て、貴様の願いだろう」
「はっ、ばれたか」
わははと声を上げて笑うと、三成も私に釣られるように、じわじわと固まっていた顔の筋肉を緩めていく。と言っても、岩のように険しくなっていた顔が元の仏頂面に戻っただけだけど。しかし、それを横目で捉えた私は冬の終わり、道端を流れる雪溶け水を眺めるときのような感覚を覚えた。ふたりの間に流れる時間は、空に滲む朱よりも、繋いだ手すらよりも暖かい。寒くて暖かいところに居るふたりは、そうしてまた足を次の石段に乗せる。頭上の枯れ木がつくる影が段々と伸びて、石段を朱が染める。浅くなった呼吸は、いつの間にか元へと戻っていた。

自分の願いが見つからないと言う三成は、とても三成らしいと私は思う。三成は自分に関することに於いてはとことん無欲な男である。無欲で、真っ直ぐ。真っ直ぐ前ばかりを見ているから、自分と向き合うのが得意ではない。本人は何も感じてはいないのだろうし気づいてはいないのであろうが、そのストイックさにあてられて隣で見ているこちらの方が勝手に息苦しくなることもままある。こんなにも生きるのが大変そうなのに、よくぞここまで大きくなれたものだ、なんて呆れるのを通り越して感心してしまうことも。…しかし不思議なことに、同時に、その極端なまでの真っ直ぐさが心底羨ましくも思えるのだ。生き辛いのはいただけない。でも、三成のように何からも逃げることなく真摯に世界と向き合ったら、この世界は、この街はどんな風に見えてくるのだろう。どんなに美しく見えるのだろう。三成は何を見ているのだろう。気になって仕方が無い。三成みたいになりたい。三成になりたい。そんなことを、私はあまり性能のよくない頭で密かに考えてしまうのだ。

――そして時たま、そのような羨望を通り越して、からかってみたいという邪な気持ちが生まれてしまうことがあるのもまた事実。

「…ねぇ三成」
「なんだ」
「あのね、もし自分のお願いが見つからないなら…代わりに私のお願いをしておいて欲しいんだけど」
「……代わり?」
「そう。『雪が積もりますように』って」
木々の隙間を小鳥が行き交う。にやりと我ながら底意地の悪い笑みを湛え、それらの賑やかな声に負けぬよう、私ははっきりと、彼に負けず劣らず真っ直ぐに言葉を紡ぐ。すると三成はこれまた予想通り、怪訝そうな声色で返した。
「……私が降らんでいいと言ったのが聞こえなかったか?」
「もう、さいごまで聞いて。それでね、私は三成の代わりに『雪が積もっても三成が困りませんように』ってお願いするの。どう?お願いごと交換会」
なかなか面白い案でしょ?得意になって、私はふふんと鼻を鳴らす。それを合図にするかのように、右隣から長めの溜息が聞こえた。
「…貴様は馬鹿か」
「わっ!失礼な!三成のことを考えてるんだよ!私なりに!」
「私は考えろと頼んでなどいないし貴様の提案は私のためになっているとも思えん。そもそも敢えて交換をする意味もわからん。そんなに雪が恋しいならば貴様が勝手に願えばいいだろう」
「えー!それじゃあつまんないじゃん!あとなんか交換した方が神さまに仲の良さアピールできそうだし」
「…してどうする」
「神さまって新年は沢山お願いごと聞いてるだろうから、インパクトある方が聞き入れられやすいっていうか叶えられやすいかなって思って」
「…………馬鹿か」
「あー2回も馬鹿って言ったひどい」
白い息と共に与えられる私をばさりと罵倒する言葉も、ふたりを包むすべてと同じ。やわらかくて、暖かい。なみなみと注がれた幸福感を胸に抱いて、私はそのまま俊敏な動作で三成の腕を器用に掻い潜り、細い体に抱きつく。「!」三成はじたばたと、私の腕の中で身じろぎをしながら「やめろ」だの「何をする離せ」だのと喚く。「やだ」それに対して大声を上げ私は拒否をし続けていると、やがて三成は観念したようにひとつ息を吐き、脇腹あたりに置かれた私の首の後ろにぎこちない動作で腕を回した。“勝ち”を確信した私は腕に入れる力を強め、すりすりと頬を三成の身体に寄せる。ふたりを見守るようにあちらこちらへと漂っていた白い息はふたりの間をすり抜けて、そのうち溶けて消えて冬の一部となった。
「…さあ!さあさあっ!いざ行かんっ!れっつ遅めの初詣!」
「そう言うなら自分の足でしっかり歩け!」
「あっそうだ、絵馬も書こう。三成も書こうね!」
「…勝手にしろ」
わあわあ騒ぐふたりの背後に広がるは、おもちゃ箱の中身をひっくり返したような街。それを見下ろす鳥居の下を、ひとつになったふたりの影がくぐり抜ける。降り積もるふかふかの白い雪に思いを馳せる傍ら、私のもうひとつのお願いは、当初願おうと決めていた『今年も三成と仲良くできますように』という“今更”神頼みをするまでもないものではなく、豊臣の永劫に渡る繁栄にしておこうかと、心に決めていた。