北へ


※1主の名前はティルを採用
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風が吹いた。南から北へ、心躍る唸り声を上げて。それを見送るとほぼ同時に、私の隣に座るルックが退屈そうに欠伸をする。おや、と一瞬眉を震わせ私は顔を覗き込んだが、それにつられ、やがて私も大きな口を開けた。
文字通りに退屈なふたりの視線の先では、長きに渡ったハイランドとの戦を終え、故郷へと帰っていく兵士達が威勢の良いかけ声と共に各々馬に荷を括り付けている。
家族の元へ、或いは故郷に残して来たであろう恋人の元へ、これから彼らは帰る。
自分の戦での武勇伝だとか、九死に一生を得た話だとか、共に帰ることが叶わなかったかった友人の話だとか、たくさんの記憶を抱えて。それはこの上なく美しい光景だと、戦が終わる度に私は思う。しかし同時に、それらを眺めながら、帰る場所の無い私はどこか居心地の悪さを感じるのだった。

「平和だね」胸中の濁りをかき消すように私が呟くと、ルックが至極怪訝な顔を向ける。それに口の端をにっと吊り上げて「平和だ」と、もう一度私が言うと、ルックは返事の代わりに深い溜息を吐いた。
、それ、本気で言ってる?」
「もちろん。私はいつだって本気よ」
「それは初耳だね」
ひとりの兵士が鍛えられた腕で背を撫でる、立派な毛並みの馬から視線を逸らすことなくルックは言う。
つい数日前まで大将の補佐として戦場に立っていた疲れからか、心なしか頬は痩け、目元にはうっすらと影が落とされていた。
「……っあーもう!辛気くさい面下げてんじゃないよ、若いんだから。あんたはもっとシーナを見習いなさい」
居たたまれなくなった私は年甲斐も無く声を荒げ、荷を積む兵士達の傍ら、彼らを手伝いに来ていたらしい若い女性の腰に手を回し、そこら辺の花壇から摘んできたであろう花を差し出すこの上なくだらしのない表情を湛えた彼の友人を指す。
戦が終わっても変わらないものがあるとすれば、間違いなくあれだ。そう問われれば、私は答える。問われる前から心に決めている。
あの腹立たしい顔に季節外れの紅葉が散るまであと何分、いや、何秒かかるだろう。
いっそ賭けてみるのはどうか、と私がルックに提案するより先に、彼の唇が開いた。
「…ああはなりたくないね」
「うん、わかる」
唸るように頷いて、私達は顔を見合わせる。
ルックの星屑を秘めた瞳が揺れ、やがて2人分の控えめな笑い声が生まれた。
「…平和だ、この世界は」
懲りずに私が言うと、これぞ3度目の正直。ルックは鳥の鳴き声にすらかき消されそうなほど微かな声で「ああ」と返した。
戦は終わった。紛れもなく、平和なのだ。
うれしいほどに、平和で、かなしいほどに、平和で。
そして、この平穏な日々、平和の訪れが示す“別れ”を抱き、私は重い腰を持ち上げる。
このエントランスから眺める風景は好きだったけれど、石造りの階段は長時間座っているとお尻が痛くなる。
ぽふぽふと埃を払うついでに労るように悔しくも柔らかな肉を叩いた。
「…ティルも帰ったんだっけ」
「そのようだね」
「じゃあまた会いに行かなきゃな」
「君もまめだね」
「心配せずともルックにも会いに行ってあげるよ」
「うっわあ」
「なにそれ。嬉しいくせに」
眩しそうに顔を歪めながら私を見上げるルックに言うと、彼はフンと小さく鼻を鳴らす。
それを捉えてくすくすと笑えば、再び南から強く風が吹いた。
舞い踊る枯れ葉、砂埃。
それらすべてを全身で受け止めるように、私は何も言わず、両手を大きく開いた。
この平和が永劫に続くとは限らないし、その方が考えがたいことであろう。
時が流れれば人も変わる。人が変われば国も変わる。
未来のことは、わからない。
しかし、そんな何一つ見通しの立たないこの世の中で、ひとつだけわかっていることも、あった。

「またね、ルック」

このぬるい風が吹く度に、きっと私は彼のことを思い出す。
風を生み、人を癒やす。優しく寂しい、憂いを抱える、この男のことを。

色あせることのない風の色に頬を染め、まだ微かに残るお尻の痛みを携えつつ、私は平和なこの世界と風に別れを告げるべく手を振った。