夢とひかりと長い夜<


そういう体質なのだろう。昔から、私はあまり夢を見ない。

でも実際のところ、人間は寝ているときに必ず夢を見ているものらしく、しかも一晩にひとつやふたつどころではなく、多ければ5、6個、全く別の夢を入れ替わり立ち替わり、代わる代わる見ているという。
だから私は夢を見ないのではなく、単に見たこと自体忘れてしまっているだけ。
――というような話を、以前博学多識な自分の幼なじみで、現在同じ屋根の下に暮らしている半兵衛に教えてもらったことがある。
一体どういう話の流れだったかは全く覚えていないし、覚えているのは話の輪郭だけで詳細も思い出せないし、半兵衛には悪いけど今更思い出す価値も無いとも思う。
何だかそれらの話は自分が忘れっぽいと遠回しに言われているみたいで少し癪だったが、怒ったところで覚えていないものは仕方が無い。というか、多分覚えるに値しないと自分が判断したから忘れたんだろう、私の脳みそは器用で性能がいいんだ、という言い訳を口にしたときの彼の何か言いたげな憎たらしい顔は、その代わりと言っては何だけど、今でもはっきりと覚えている。

物知りな半兵衛の話では、世の中には自分の見た夢の詳細を記す夢日記なんてものを付けている人も居るらしい。しかし、現実ではないものに縋るその神経があまり私には理解できない。
そうまでして、夢って覚えておきたいものなのだろうか。良いものだけならまだしも、悪いもの、悪夢まで。それよりももっと覚えておきたいものって、その人には無いのだろうか。
いいや、私の基準で考えちゃいけないものなのかもしれない。やっぱり使える脳みその容量の問題かな。そんな風についつい皮肉っぽく考えてしまうのは私の悪い癖だと、既に耳にたこができるほど半兵衛にも言われてきたからここでは割愛しようと思う。

と、そんなことを寝起きの頭で考えながら、特に大した意味も無く、私は部屋一面を覆い尽くす深い闇を焦点の定まらない目できつく睨んだ。

「………」

じんじんと微かに熱を持つ瞼を手の甲で軽く擦る。指先を掠める前髪が僅かながら水気を含んでおり、不快感を覚え、反射的に顔を顰めた。 弾みをつけて上半身を起こし、そのまま5本の指をシーツの上に滑らせるが、何処までいっても触れるのはざらざらとした表面だけ。
不審に思いつつベッドの脇に置いた目覚まし時計を見ると、日付が変わってそろそろ1時間が経過しようとする頃だった。
厚みのある羽毛布団を避けて、ひんやりとした空気の中へ身を寄せる。上着を羽織り、手探りならぬ足探りで床に置いた毛の長い冬用のスリッパに爪先を通し、軸が未だ定まらずゆらりと揺れる身体をどうにかこうにか操って、リビングへと続くドアに手を伸ばす。
指先から伝わってくる無機質な冷たさに、私にしては珍しく、先ほどまで見ていた永遠のようにすら思えるほど長く感じた悪夢を思い出すが、軽く頭を振って誤魔化そうと努力する。
そんなことで拭いきれるような代物で無いことは重々承知。でも、今はとりあえずそうしておきたかったのだ。

一呼吸置いた後、音を立てないよう慎重にドアノブを傾ける。
刹那、隙間から惜しみなく漏れ出す光に少しだけ目を細める。が、その先にあるリビングで、私がその昔、引っ越し祝いとして贈ったマグカップに入った飲み物を啜りながらパソコンのモニターとにらめっこをしている半兵衛の姿を捉え、私の胸の中はたちまちぼこぼことした、不揃いの柔らかいものでいっぱいになった。
――私があまり夢を見ないのと同じ。
昔からそうだった。
迷ったとき、理不尽な現実に怒りを覚えたとき、不安な気持ちになったとき。半兵衛の姿を見ると不思議と安心するのだ。
それに幾度となく助けてきて貰ったし、今もこうして頼りにしているが、本人には一度も事実や感謝を言葉で伝えたことがない。
そこには小さじ一杯程度の気恥ずかしさと、自分でも笑ってしまうような私の意地とプライドがあった。

今し方くぐり抜けてきた寝室のドアはそのままに、私は暖房の効いたぬくぬくとしたリビングを進む。
彼が向かう机が丁度私が死角になる位置、壁に向かっていることもある上に相当集中しているようで、私が距離を縮めても気配に気づいたような素振りを一切見せない。
普段の私ならば隙だらけとも言えるこの状況を絶好の『悪戯日和』だと解釈し、そのまま気配を消して顔を近付けるところだが、今日は訳が違う。

――半兵衛が、私に気づいていない。

その事実がどうしようもなく寂しくて、先ほどまで見ていた例えようもない悪い夢を思い起こすようで、ひとりぼっちだと言われているようで、怖くてたまらなかった。
それでも呼びかけようとしなかったのは、例の年季の入った3つの隠し味がぎりぎりのところで作用していたが故である。
しかし、矢張りと言うべきか、何と言うべきか。その誰に強いられたわけでもない我慢も長くは続かなかった。
私が履いているスリッパほどではないが、ふわふわとした光りに溶けるような髪の毛に指先が届くほどの距離まで詰め寄った時、

「……半兵衛ぇぇええぇ……」

遂に耐えきれなくなった私は、ぎゅっと締まった喉をこじ開けて、我ながら情けないにもほどがある、心から湧き出る叫びにも似た声色で彼の名を呼んだ。
「わぁっ!?」
彼との付き合いはかれこれ20年以上にも渡る。しかし、そんな私でも聞いたことも無いような驚駭の声を半兵衛は上げて肩を震わせ、視線をモニターから背後に佇む私へと移した。
「…半兵衛ぇ……」
再度呼びかけながら、こちらを恐怖の色が混じった瞳と共に振り返る半兵衛の肩越しに机を見ると、たくさんの明朝体が踊るA4のコピー用紙が所狭しと置かれている。
いくら長く付き合っていても、まだまだ半兵衛についてわからなかったこと、知らなかったことと出会うことがままある。私の視線にある机上の状況もそのひとつであり、頭が切れ、整理整頓が得意と思われがちな半兵衛も、人の目に触れないところでは乱雑に物を置く傾向にあるということは、一緒に暮らし始めてから知ったことであった。
指摘すると「これが僕にとっては一番効率が良い方法なんだ」と弁解するが、それも含めてとても人間らしくて、好きだな、と私は真っ直ぐに、純粋に思う。
ただ、今の今まで叩いていたキーボードすら覆っているのはいがなものかとも思うけれど。
「…ちょっと…!吃驚させないでくれるかい、
「…だってぇ…」
半兵衛気づかないんだもん。口を尖らせて、私は悪くないと反論をする。半兵衛は困ったように深い溜息をひとつ吐いた後、細い指先で眼鏡のフレームを持ち上げて、私の顔が見えるよう身体の向きを変えた。
私が悪夢を見ていたうちに、お風呂には入ってしまったようだ。寝室に行く前にした「お湯冷めちゃうよ」という忠告に気のない返事を寄越したものの、一応聞いてはくれていたようで、嬉しくなる。
パジャマの衿が片方くしゃくしゃになっていたのを手を伸ばして直してあげると、半兵衛は少し驚いたように目をぱちぱちさせた後、気恥ずかしそうにわざとらしい咳払いをした。
「……それで?どうしたの。そんな情けない声を出して」
半兵衛は椅子の背もたれに横腹を押し当てて腕を伸ばし、私の髪の毛に骨張った手の甲を滑らせる。
規則正しいリズムと微熱。
今はただただそれが気持ちよくて、半兵衛の質問に答えないまま、私は黙ってそっと目を閉じた。
瞼が作る暗闇も、怖くない。それどころか、今は心地よかった。

「怖い夢でも見たのかな?」

黙りを決め込んでいるうちに、半兵衛は次いで穏やかな声で問いかける。
私が突然図星を突かれてはっとして目を白黒させていると、半兵衛は何も言わず、うんうんと理解を示すように二度首を縦に振った。
その反応に微かな違和感を覚えながら、私は恐る恐る訊ねた。
「……半兵衛、笑わないの?」
「笑わないよ」
「どうして…?」
私が知ってる半兵衛なら、ここで『子どもじゃ無いんだから』と悪戯っぽく笑うに違いない。寝室を出た時から、そう勝手に考えていた。半兵衛はいつだって私の前を飄々と行って、とても世話焼きで、そして大人だった。だからいい年して変な夢を見て泣いて起きてくる私を笑うに違いない、と。
しかしいつまで経ってもそのような素振りは見せないどころか、受け入れようとさえしてくる。
それが私には不思議で仕方なかった。
私の問いかけに、半兵衛は私の頭に這わせていた手を退けてそのまま自身の顎に添え、「うーん」とわざとらしく考える素振りを見せる。
別に疚しいことなどひとつもなかったけれども、何故かお説教を受ける前のようにドキドキしてしまったのは私だけの秘密である。
「どうしてって……そうだな。誰にでも、そういう経験はあるものさ」
「……ふぅん?」
誰にでもね、と呪文のように繰り返す半兵衛は目を伏せて、唇の端をゆるく持ち上げた。
意味ありげな微笑みから与えられた真相を、今の私には汲み取ることはできない。
でも、今はそれでも良いかな。これまた不思議なことに、そう思わされるのだった。

「怖い夢見たときはどうしたらいいの?」

再び私に背を向けて、うーんっと声を上げて大きく背伸びをする半兵衛の背中を眺めながら、私は訊ねる。
首だけでこちらを振り返って、机上に散らばる書類を纏め始めた半兵衛に、手元を見なくて纏めて後でわからなくならないのだろうか、と勝手に心配するが、会話に水を差すのは憚られたし、きっと余計なお世話なのだろう。黙っておいた。
「…そうだなあ。僕としては、人に内容を話してしまうのが一番良いと思うけど。気分がすっきりするしね」
「そっか…」
実にもっともらしい答えだと思う。
良い夢は人に話すと正夢にならないって言うし、それと同じことをすれば良いだけの話。
それに半兵衛の言うとおり、話してしまえば意外と気分も軽くなるのではないかとも思う。
しかし、なんとなくあの夢を思い出すのは気後れしてしまう。折角頭から暖かくなった体温が、再び下がって凍り付きそうな、そんな感覚を覚えた。
助言に対して私が逡巡していると、とんとんと、集めた書類を半兵衛が揃える音が、パソコンの電源を落としたことによりしんと静まりかえった室内に響く。
それから音も無く静かに椅子から立ち上がった半兵衛はくるりと向き直り、身体とは裏腹にそこだけ熱くなった私の目尻に指先を這わせた。
深い深い夜。蛍光灯の下、夜と朝の間のような色の半兵衛の綺麗な瞳が揺れる。
それは夢のようで、でも私がさっきまで見ていたようなものではなく、ずっとずっとその世界に居たくなるようなほど、甘くて愛おしい類いのものだった。
「…でもね、」
いつまでも聞いていたくなるような細く澄んだその声は、半兵衛が私の瞼に短く口づけることにより中断される。
熱が離れていくのを感じ取り、驚いて思わずぎゅっと閉じた目を恐る恐る開けたとき、私のよく知る、少しだけ意地の悪い顔をした半兵衛が立っていた。

「良い夢を見て上書きする方が、今は得策かもしれないね」

水族館の魚のようにぐるぐる泳ぐ私の視線の向こう。くしゃりと縮まる目尻の皺。それは長く、しかし決して悪くはない夜の始まりを告げる合図のようだった。