いつものファンタジア


大きな欠伸をする私の頭上に枝を広げる、喫煙所の隣に植えられた桜の木は、もう相当なご老体だという話を前に誰かから聞いたことがあった。
平均的な桜の木の寿命がどのくらいなのかはわからないし、そもそもそれが本当の話なのかどうかも定かではないけれど、言われてみれば大学の敷地内にある他の桜の木に比べて貫禄がある、ような気がしてくるから不思議である。
桜の開花宣言から3日が経った。
まだまだ満開とまではいかないが、ぽつぽつと柔い白みの強い薄紅色の花を咲かせ始めた枝の先を見れば、今か今かと咲く時を待つ蕾よろしく自然と顔が綻ぶ。
年老いていても桜は桜。恐らく本当の見頃は来週、新年度の講義が始まる頃だろうか。
去年は確か、今年よりももっと開花が早くて、春休み中に元親の家の近所の公園で夜桜を見たんだったな。
慶次が家から持ってきてくれたおつまみがとても美味しかったのと、酔って楽しくなってしまったふたりを引きずるようにして帰った時のその印象がどうしても強いのだけれど、赤くてまあるい提灯に照らされた誇らしげに咲く花々の美しさもきちんと覚えている。
今年は時期が時期だし、学校が始まってから、この木の下で飲み食いするのも悪くはないのではなかろうか。
去年も入学したばかりの一昨年もあまり気に留めてはいなかったが、この老木が咲かせる花も壮観であろう。
それに学校内の方が万年春眠暁を覚えずな慶次と元親、ふたりを学校に来させる絶好の口実にもなるし、一石二鳥。我ながら名案だとも思う。

未だ咲かぬ花への期待に私が胸を膨らませていると、南から強めの風が吹く。
運ばれてくる匂いは、もうすっかり春だった。
乱れた前髪を梳きながら再び枝が四方に張り巡らされた空を仰ぐ。
それと、私のお尻の下。風とは対照的にまだ微かに冬の寂しさを残した芝生ににゅうっと長い影が落とされたのは、ほぼ同時のことであった。
「お前、口開いてんぞ?」
「……うっさい」
枝と空とを背負うようにして突如私の視界に現れ、にいっと悪戯を企てる少年のように笑う元親を一睨みすると彼は態とらしく肩を竦めた。
「悪ぃ悪ぃ。待たせたな」
「早かったね。もう用事終わり?」
「これロッカーに取りに来ただけだし」
金属音と共にずっしりとした愛用の工具箱を掲げて見せる元親はもう片方の手で私の髪をくしゃくしゃと弄ぶ。
それがくすぐったくてゆっくり目を細めると、私の視界というフレームの中で、元親の透き通るような色の髪の毛が優しい風に揺れる様が一瞬舞い散る花びらのように見え、存外美しくて、少しだけ儚くて、驚いて、何故だか思わず笑ってしまったのだった。 「…何が可笑しい?」
「いーや?別に?春が来たんだなぁ~と思って」
「ハァ?」
意味わかんねぇよ、と怪訝な顔をする元親に「わからなくてもいいよ」とただただ笑って私は返す。
次々に込み上げて来る笑いを抑えながらいい加減立ち上がろうと差し出された元親の大きな手を取ると、それは矢張り春のお日様のように暖かで、微かな微睡みを覚えた。

元親は、春みたいだ。
でも夏の海が私が知る他の誰よりも似合うし、秋の幾重にも積み重なった落ち葉みたいにいつだってそのままの私を受け止めてくれる。
そして、私が桜と同じくらい恋い焦がれる白い雪に似た色の髪は冬を思わせる。
なんだかそう思うととてつもなく欲張りな男だなあと思う一方で、その欲張りな男を独り占めせんとする私はもっともっと欲張りな女なのかもしれないなあ、なんて私にしては少し難しいことを考えてみる。
――でも、例えどんなに欲張りだと自覚したところで私の気持ちも巡り来る季節も変わらないのだから、今更どうすることもできないのだが。

「元親、」
「んだよ」
「学校始まったらお花見しようよ。ここで」
「あー、いいんじゃねぇの」
「それで、今年の夏も海行きたい!今度は夜に」
「はぁああぁ?お前気がはえーよ」
「えへへ」
「……ったく。仕方ねぇなぁ」
「やったぁ」
くるりくるりと芝生の上を漫画みたいに手放しで喜んで回る私と、それを見てやれやれと溜息を吐きながらも口元がゆるく綻んでいる元親。
人気の少ない春休みまっただ中の構内で繰り広げられる小さく大きな出来事は、春先に吹き抜ける南風と、ふたりの傍らに悠然と立つ老木だけが知っている。
共に迎える三度目の愛おしい季節。
それらひとつひとつに思いを馳せつつ、私はぽかぽかの太陽みたいな大きな手にそっと指を絡ませた。