春満ちる<


宙に浮いた意識の向こう。缶に入った炭酸飲料を開けたときのような音と共に大きく身体が揺さぶられた。
電車の窓から差し込む暖かな日差しの中、もう数分、いや、数十秒だけで良いから目を閉じて居たかったが、何故か絶対に遅刻できない日の朝のような“ここで起きなくてはマズいことになる”という危機感を本能的に全身で感じ取ったため、私は渋々目をこじ開ける。
少しだけ冬の匂いが残る深い青空。あまり馴染みの無い、緑の割合が多い風景。数十センチだけ開いた窓。
サッシに刻まれた誰かと誰かのイニシャル。ところどころ褪せている、夕陽みたいな色のボックス席のシート。
目に入る物ひとつひとつを味わい確かめながら順を追って視線を移ろわせると、やがて車窓から見える雄大な景色とは対照的に窮屈な通路に不機嫌そうな顔で佇む半兵衛の姿が飛び込んで来た。
シートの背もたれに左手を置き、右手を薄手のトレンチコートのポケットに収めた彼は、私と視線を交わすとぱちぱちと星を弾くような瞬きをする。
窪みの中で揺れる瞳は窓から差し込む光のせいか、はたまた怒っていらっしゃるせいか、いつもより鈍く深く輝いていた。
「…………おはよお半兵衛」
「おはよう、。置いて行くよ」
私が苦し紛れに零した挨拶をひらりと躱し、半兵衛はこつこつという靴音と共に電車の外へと向かう。
例えようのない気恥ずかしさと共にひとり年季の入った車内に取り残された私も漸く重い腰を上げ、「春め…」とふつふつと込み上げてきた行き場のない怒りをとりあえず季節にぶつけつつ、傍らに置いた鞄を肩に掛けた。

草の匂いがするホームを通り、無愛想な駅員さんの居る改札を抜け、見慣れぬ道を往く。
タクシーが一台だけ待つ綺麗に舗装された駅前の広場を過ぎれば、やがて両側に古い民家や商店が建ち並ぶ細い道に出た。
視線を足下から上げると遠くの方に緑に混じってぽつぽつと所々薄い色が散る山々が目に入り、流れてる風は優しく頬を撫でる。
私達が生まれ育った場所の風景とは全く違うが、何故かどことなく郷愁を感じてしまう風景の数々に目と心が惹かれ、歩みの速度がぐらぐら揺らぐ。
しかしその景色の中で私を先導する見慣れた背中は不思議なことに、ずっと一定の距離感を保っていた。
「良いところだ」
2人分の足音に重ねるようにそっと私が呟くと、それまでただ前だけを見てひたすらに歩みを進めていた半兵衛がここで初めて立ち止まり、私を振り返る。
「良いところだね」
少しだけ距離を詰めて私も遅れて立ち止まり、同じ言葉を今度は半兵衛に問うように言う。
彼は何か珍妙な物でも見るかのようにきょとんとした表情をその端正な顔に湛えていたが、束の間の沈黙の後、「そうだね」と言って口元を緩めた。

待ち焦がれた空白の週末。
「どこか行ったことのない所に行きたい」という我ながら漠然としたリクエストを半兵衛にしたのは、昨夜床に就く前だった。
そこに、言葉以上の深い意味は無かった。
ほんの気まぐれだったし、行き先は本当にどこでも良かったのだ。
行ったことのない場所であれば、海であろうが山であろうが、どこだって。
――だが、実際は自分がそう零した相手が家族でも友人でもなく半兵衛であるというところがミソだった。
半兵衛ならばどこに連れて行ってくれるのだろう、どこを選ぶのだろうという興味と、きっとどこであったとしてもきっと自分はその場所が気に入るだろうという確信のようなものが私の根底にはあった。
半兵衛の選ぶ物はいつだって正しいという、崇拝にも似た信頼が。
そうして私の無茶なお願いに電気を消す手を止め少し考えた後、「楽しみにしてて」と年端もいかない少年のように無邪気に微笑んだ半兵衛は、やはり今日も正しかった。
「ほんとに初めて来た、この辺」
「そうだろうね。僕もだから」
「小学校の遠足で来たのここじゃないよね?」
「それはまた別の場所」
「そっかぁ。何も無いねぇ。山と、家と…あと桜くらいしか」
「何かよっぽど特別な用事でもないと来ようと思わないだろうね」
目の前に差し出された半兵衛の右手を遠慮気味に取ると、それを合図に再び2人は人気の無い道を歩み始める。
追いかけていた背中に並び立ったことにより一気に視界が開け、気持ちも開放的になるようだったが、程なくして河原に面した大きな通りに出たことにより私の心は開放感に高揚感が上乗せされ、最早手の付けられない状態に達していた。
「……じゃあ、今日は何か特別な用事?」
「さあ。それはどうだろう」
「私と一緒に出掛けるから、当然特別な用事じゃないの?」
「………君のそういう良く言えば前向きな所、嫌いじゃ無いよ」
「やったね!」
「でも悪く言えば図々しいだけだから、僕以外の前では控えなよ」
「はぁい」
私が気のない返事をすると半兵衛からちくりと針を刺すような視線が送られ、私は咄嗟に背筋を伸ばし「まずい、調子に乗りすぎた」とお小言のシャワーを覚悟する。
しかし幸運な事にそれは単なる私の杞憂に終わり、数秒後私にもたらされたのは「大体君は」とか「いつも言ってるけど」という常套句から始まるお説教ではなく、半兵衛の浅い溜息と綺麗に弧を描いた唇だけだった。

別に私だって半兵衛に怒られたいわけじゃないし怒らせたいわけでもないけれど、折角身構えたのに怒られないのは何だかちょっとだけ損をした気分になる。
けれどもこんなに天気が良くて、こんなにぽかぽか暖かくて、こんなに開放的な場所に居るのだ。怒りたくなくなる半兵衛の気持ちもよくわかるから困ってしまう。

長年の付き合いだから、私は半兵衛の考えていることは今みたいに文字通り手を取っていなくても手に取るようにわかる。
手を取っているのならば尚更であり、繋ぎ目から腕を伝って頭まで、血液を循環させるかのように思考が注がれていくのだ。それは仕組みや仕掛けというよりは“勘”である。
伝えるものではなく伝わってしまうものだから半兵衛は私に隠し事はできないし、私もまた半兵衛に隠し事はできない。
透き通るような2人の関係は、まるで頭上に広がる春の空そのものだな、なんてどうでもいいことを考えながら、行き場を無くした緊張感をほぐすように、私は半兵衛に倣って口元から表情を和らげた。
春様様。口の中で、そう唱えて。

「…因みにね、」
「今度は何だい?」
左隣の半兵衛の顔を覗き込むと、彼の向こうで川の水面がちらちら光るのが見える。
せせらぎに混じって返される半兵衛の選んだ言葉はうんざりしていたが、反面声色は柔らかで暖かだった。
それがただただとても嬉しくて、満たされるようで、幸せで。
春に踊らされる心を両手に抱きながら、私は春の匂いを胸一杯に吸い込んで、細く長く吐き出した。
「私は半兵衛と出かけるならいつだって特別な用事だから、」

ひとつ、よろしくどうぞ!
片目を瞑り、戯ける私の声に、遠くから響く少しだけ下手っぴな鶯の歌が重なる。
そこだけ時が止まったかのようにぴたりと固まる半兵衛の背後には、風が生み出す水面の宝石と、土手に揺れる菜の花の黄色。
それらを背景に雪のような白からじわじわ染まった半兵衛の頬の色は、春の始まりにしては些か濃すぎる紅だった。