不揃いの花


「幸せってのは多分、相当な寂しがり屋だと思うわけ。だから幸せな人のところにはとことん幸運が転がり込んでくるし、ツイてない人のところにはいつまで経っても来やしない。だってそうでしょ?今日ツイてるなーと思ったら何か立て続けにラッキーなことが起こることってあるし、逆にツイてない日ってとことんツイてないもん。…あー、そう、でもねぇ、厄介なことに、幸せって人によって感じ方が違うじゃん?ほら、例えば世間的にはちょっと遅めの時間にお昼ご飯を買いに行ったとき、いつものお店にまだ最近ハマってるクリームチーズとスモークサーモンのサンドイッチが残ってたとする。そうそう、アポロンの近くの!うん。私にとってはこれは最高に、最上級にラッキーなことなの。もうそれだけでその日の後半の仕事はどんなめんどくさい内容であれ鼻歌交じりにこなせてしまうくらいにね。けど、世の中にはクリームチーズとスモークサーモンのサンドイッチが残っていたとしても『あ、残ってる~』くらいにしか思わない人だって居るの。その人にとってはサンドイッチが残ってたことは幸運だとか特別な出来事なんかじゃなくて、『たまたま』。その一言で処理できてしまう出来事ってことで。私にとってはこれ以上無い程にラッキーな出来事なのにだよ?そんなわけでさあ、何を幸運とするかは人によって違うからぁ……あ、イワン、ちょっとだけ右向いてくれる?そうそう……っと、あれ、何が言いたかったんだっけ………ああ、だから、些細なことでも『自分は幸せだー』って思えるようにしたら良いんじゃないかなあって私は思うの。どんな小さな事にも感動したり幸せだって思えるような感性を身につけていた方が絶対生きてて楽しいし、それに幸せがあるところに幸せは寄ってくるし…ま、これは私の持論だけど。ねえ、どう?イワンはそう思わない?」

膝から下や細めのプリーツが入った小花柄のスカートが汚れる事にも構わず膝立ちになり、饒舌に独自の幸福論を展開させながら僕の頭にひっきりなしに指を這わせるちゃんの向こうに広がる風景は、薄緑の海に数多の泡が浮いているようにも見えた。西の方から眠くなってしまうほど穏やかに吹く風が時折思い出したようにふたりの足下に咲く白くまあるい花々を揺らし、その存在をここぞとばかりに知らしめる。どこまでも平和で牧歌的だ。エデンだとか天国だとかいう場所が本当に存在するとしたらきっとこういう場所なんだろう、等という気ままで観念的な考えを僕は脳裏に浮かべながら、先程のちゃんの問いかけに「そうかもしれないね」と無難かつどっちつかずな返答をした。耳元で花の茎と僕の髪、そしてちゃんの細い指先が奏でるしゅるしゅるというくすぐったい音を聞きながら、今度は僕の方から「できた?」と問う。「うーん、もうちょっと。まだ長さが足らなかった」言って、ちゃんは一度僕の頭に乗せた作りかけの花冠を外し、再び自身の膝の上に乗せた。その傍らにある目の粗いバスケットの中へと視線を移せば、ちょっと厚めにスライスされたパンの上にハムとオリーブの塩漬け、スライストマトが折り重なるように乗った食べかけのオープンサンドが目に止まる。今にも重力に逆らいきれずに崩れ落ちそうなそれを見て「食べないの?」と訊ねようかと思ったが、花冠へと向けるちゃんの真剣な眼差しを見ると、その問いは(僕は食べたこと無いけど)ちゃんの幸せを創るというサンドイッチに乗っているクリームチーズの如く、口の中へと溶けていった。花束と花束を重ねて、茎を巻き付ける。持ち替えたら今度は反対に巻き付けて、次の花を。ちゃんが没頭する単調な作業をただ黙って眺める。耳を澄ませばどこか遠くの方で、犬の鳴き声とお母さんを呼ぶ子どもの声がした。

「それでね、さっきの話の続きだけど、」
作業が波に乗ってきたらしい。沈黙を破り、再び口を開いたちゃんに、僕も曲がっていた背筋を伸ばして「うん」と相槌を打つ。ついでに痺れてきた足を組み直すと、傍らでちゃんは両腕を伸ばし、さっきより少しだけ大きくなった花冠を暖かな日差しをもたらす太陽に掲げるように翳しながら続けた。
「つまるところ、私はイワンに幸せになって欲しいわけ」
「…………あの、それはちょっと話が飛躍しすぎじゃないかな?」
「えっ、そう?」
「うん」
掲げた花冠と両腕はそのままに、ちゃんは不思議そうに首を少しだけ左に傾ける。その屈託も表裏も無い動作の愛らしさに一瞬目を奪われたが、それを誤魔化すように僕は別にしたかったわけでもない咳払いをひとつした。そして何故だろう、唐突に、この時がずっと続けばいいのにな、なんていう喜怒哀楽のどの感情にも当てはまらない考えがぽっかりと、頭の片隅に浮かんだ。
「でもまぁ、これは事実だからさ」
ちゃんはころころと軽い声を立てて笑うと、ここで漸く両手と花冠を膝に置き、きゅっと引っかけるようにシロツメクサの茎を指先でなぞる。それから、ところどころ解れている部分を器用に押し込み、最後に編み込んだ茎を小さな輪の中に通すと、まん丸とまではいかないがそれなりに綺麗な輪っかが完成した。花冠を作る術を会得していない僕にとっては最早神業としか言いようのないその超技術に感心する一方で、対照的に、ちゃんの口から溢れる言葉のひとつひとつは言葉は悪いけど、ばらばらしていていつまで経っても輪にならず、話の筋が見えてこない。それでも湛えるその表情はふたりの頭上に広がる空のように一点の曇も無く晴れやかで、疑いようのない透明感と安心感があり、それ以上僕は何も言えなくなるのだった。

「どうしてちゃんは僕に幸せになって欲しいの?」

「戴冠式、戴冠式!」とはしゃぎながら出来上がった冠を僕の頭に乗せるちゃんの表情は誇らしげだ。そして、花冠に関してとことん拘りがあるらしい。いつの間にかどこからかピンを取り出し、僕の前髪を梳いたり整えたりして冠を編んでいた先程以上に忙しそうにしているその横顔に(何も恐れる物は無いはずなのに、変だなと自分でも思う)恐る恐る訊ねると、「んー」と低い唸り声を上げた後、暫くして疑いようも無いほどはっきりと告げた。
「そりゃあ、私、イワンのことが好きだからね」
「すきだから?」
「うん」
「好き、」
「そう」
「……………!ぁ…っ……!?す、すっ…すすすっ!?」
「あー!ちょっと、まだ動かないでって!イワン!」
冠落ちちゃうから~、と眉間に皺を寄せ声を荒げるちゃんと、明らかに思考処理能力がキャパオーバーしている僕。その温度差は数値化されずとも明確だった。すき、すき、すき!未だに耳の奥で鳴り響く、甘美な言葉。回らない頭へ送る酸素を求めて魚のようにぱくぱくと口を開閉していると、僕ほどでは無いけれど、夕焼け空のようにうっすらと頬を染めたちゃんは、僕の頭に固定し終えた冠から手を離し、そのままゆっくりとした動作で掌を僕の両頬を挟むようにして添えた。

「好きだよ、イワン」

だから、幸せになって欲しいの。そう言ってはにかむのを見て、僕は先程のちゃんの話をぼんやりと思い出す。幸せは寂しがり屋。だけど幸せは人によって感じ方が違う。僕のことが好きだと言うちゃんに負けないくらいちゃんのことが好きで、且つその大好きなちゃんに幸せになることを願われている僕は、他の人はどう思うかは知らないけど、僕にとってはケチの付けようが無いほど幸せだ。ちゃんが言うところの、「いつものお店にクリームチーズとスモークサーモンのサンドイッチがあった時」と同等か、或いはそれ以上に。ちゃんは幸せになって欲しいと、僕に言う。しかしちゃんが幸せを願ってくれる事、僕を想ってくれる事で僕はもう十分に幸せなのだから、その願いは叶ってしまっている。そう考えると何だか可笑しくて、滑稽で、少しだけ申し訳なくもあり、そして何より幸せだった。辺りは草の匂いと幸せでいっぱいだった。幸せで、溢れていた。ああ、そうか、これが幸せなのか。永遠を願う感情にそっと名前を付けた僕は頬に添えられた暖かい手を取り、言葉を返す代わりにぎゅっと自分の掌で包み込む。返す代わりと言ったけど、本当は違う。返す言葉が見つからなかったからだ。とくんとくんと響く、どちらのものかわからない鼓動が心地よくて、少しだけ耳障りだ。そうしてそのまま、ふたりはふたりの間に存在する距離を埋めるように、どちらからともなくおでことおでこをくっつける。「イワンが幸せなら、私も幸せっ」ほぼゼロになった距離で告げられた言葉と、顔に掛かる息がくすぐったい。「僕も、」かくして目出度くひとつになった個々の幸せを祝すかのように一度だけ強く吹いた風が、僕の頭に乗るシロツメクサの花冠を撫でていった。