まるで、この浜辺だけ透明で巨大な囲いで覆われているようだとは思った。
波の音と2人分の乾いた足音。そして控えめに通り過ぎる風の音しか聞こえない夜の海を、爪で引っ掻いたような形の月が何も言わずに照らしている。
それは眺めるにしても光源としてもあまりにも中途半端であり、有り体に言えば“何の役にも立たない”。が、しかし、その不完全さが不思議とには愛おしく思えた。
きっと、完璧なだけが完璧というわけではないのだろう。
満腹よりも、腹八分目が身体にとっても心にとっても丁度良い。
画竜点睛を欠くという言葉もあるが、何も足りていることが全てでは無く、逆に足りていないことで人の心に染み渡るような味が出るということも時にはあり得るのでは無いだろうか。
そう、まさに今宵の月のように。
「…くだらん」
――と、30秒程度の時間を使い即席で創り上げた仮説をが述べれば、その後ろから近すぎず遠すぎず、月と地球のような一定の距離感を保ちながら付いてくる三成はばっさりと容赦なく切り捨てる。
しかし、それに対しては驚くでも怒りを抱くでも無く、「うん、そう言うと思ったよ」と言って振り返り、ただ心底可笑しそうに声を上げて笑った。
そんな他愛も無いやりとりを見守るように、ふたりの左側では波が寄せては返すという不規則な運動を飽きること無く繰り返していた。
世の中は初夏の大型連休の真っ最中であり、テレビを点ければ渋滞情報やら注目のお出かけスポット情報とやらがひっきりなしに流れ、何処へ出掛けても人ばかりでぷかぷかと浮かれているが、まるでそれが嘘のように、やはりこの浜辺だけは外界から遮断されたかのような静けさを湛えている。
連休のお出かけ先に海の見える温泉宿をチョイスするなんて、まだまだ若いふたりにとっては些か背伸びをしすぎただろうかと、宿に到着した時は内心で眉間に皺を寄せたものだったが、今となっては喧噪を嫌う三成にとってこの上ない誂え向きの場所であったと心の底から確信し、しめしめと下唇を密かに濡らした。
手早く着替え、「湯冷めする」と文句を言う三成を半ば引きずるようにし宿を出て夜の散歩に繰り出してから随分と時間が経過した。
目はすっかり暗闇に慣れてきたが、これ以上先に進ませまいとでも言いたげに靴の裏に纏わり付いてくる砂の感触は独特で、少しだけ憂鬱だった。
は均等に刻んでいた歩みを徐に止め、去年から履いている踵のすり減ったパンプスと靴下を脱ぐ。
初夏と言えども三成が言うとおり、まだ夜は少し肌寒い。外気に触れたの爪先がぴくりと小さく跳ねたのを見て、三成は申し訳程度の月明かりを隠す雲のように顔を顰めた。
「何をしている」
「え。靴脱いでる」
「何故だ」
「邪魔だと思ったから」
三成も脱ぐ?と黒と白のストライプ柄のワンピースのポケットに靴下をぎゅうぎゅう詰め込みながらが悪戯っぽい笑みを浮かべつつ問いかけると、三成は言葉の代わりに短い息を吐き出す。
それを“NO”だと捉えたは「おっけぇ」と今ひとつ締まらない返事をし、左手に脱いだばかりの靴を持ち、再び波打ち際をなぞるように歩み始めた。
唯一残っていた柵を取り払ったは、もう遠慮は要らないとでも言うように、ずんずんと海との距離を縮めていく。
「身体が冷える。濡れても知らんぞ、」という三成の咎める声が辺りに響いたが、「後でお風呂入り直すから。平気平気」と跳ねるようなの声がそれを追いかけ、水音を立てながら無数の足跡を濡れた砂に刻みつけた。
「夜の海はなんだか怖いね。海坊主出て来そう。あとよくわかんない海の神とか」
「私には貴様が畏怖の念を抱いているようには思えん」
「あー、それはあれだよ。『三成と一緒だから怖くないよ!』ってやつ」
「…ふん」
「うわあなにその態度酷くない?」
もっと喜びなさいよ失礼な、と言葉とは裏腹には鈴を転がすようにころころと笑い、身体を捻り、三成の顔を下から覗き混みつつ今度は浜辺に後ろ向きの足跡を刻む。
先刻から幾度も掛けられている三成の忠告も虚しく足首までしっとりと濡れたの足は、微かな月明かりを受け、暗闇の中控えめにちらちらと瞬いた。
三成のもたらす言葉は三日月のように鋭く、いつだってどこかが欠けていた。
その欠けているピースが何なのか。どこに落ちているのか。そう疑問に思うことも出会った当時はあったような気もするが、すっかり慣れてしまった今となっては、にとっては大した問題では無かった。
それは恐らく今宵の月を愛おしく思うのと同じ理由だと、は波音で満たされた頭の中で考えていた。
「良い月だ」
空気を抜くように細長い息を吐いてから、は視線を三成から後ろに浮かぶ不完全な月へと移し、ぽつりと呟く。
一小節分くらいの間の後、至近距離で見ているにしかわからないであろう、微かに唇を緩めて「ああ」と短く返した三成は空いているの右手を取り再び歩き始める。
同じ方向を向いた足跡が2人分、平行に刻まれては波に消されながら、ひんやりとした指先と指先が欠けていた月が満ちるように、完全に成るように、絡められていく。
痛いくらいに、隙間を無くすように。
「…三成、痛い」
「我慢しろ」
「そんな無茶なっ」
小言と苦笑と微かな痛み。それらと共に縮められた距離。
そのいつまでも満ち足りることのないひとつひとつが、切り取られた夜を埋め尽くしていた。