溺れる色


今日何度目かわからない溜息を吐くと、濁った水面が微かに揺れた。初夏にしては頑張りすぎているような気がする強めの陽射しがチラチラ泳ぎ、まるで水そのものが生きているようだとは思った。
おや、これはなかなか面白い。すっかり退屈に蝕まれてしまった心を抱えつつ、は暫く生き物のような水面を眺めていたが、大方予想通り。やがてすぐにそれにも飽きて、そのまま視線をゆっくりと、先刻から右隣で身じろぎひとつせず、石像のようにじーっと同じ体勢で釣り糸を垂らしている元親へと移した。
丁度死角になるの視線には全く気づいていない様子で、元親はただひたすらにひたむきに、ぴくりとも動かない釣り糸の先を眺めている。
よくも飽きないものである。感心と呆れが半々くらいの割合で混ざった、先程より幾ばくか大きめの溜息を太く長く吐き出すと、ここで漸く元親の陽射しにも負けない程の熱い視線がへと向けられた。
「…お前なぁ…何だいさっきから…」
「だって退屈なんだもん」
が態とらしく頬を膨らませながら言ってみせると、元親は不機嫌そうに眉根を寄せ、左手を軽く握っての頭を小突く。「あでっ」という気の抜けたの声と共に、少し湿った風の音が辺りに響いた。
「ひ、ひどい…」
「少しくらい辛抱しろや」
「してるよぉお」
「まーだ30分しか経ってねぇだろうが」
全くよぉ。心の底から呆れ返る、といったようにぼやく元親に向けては聞き分けのない子どもの如く「べーっ」と舌を出し、そのまま2人の後ろに置かれた汚れたバケツの中を一瞥する。 狭い狭い海の中では、開始早々元親が釣り上げた一匹の真っ赤な鯉が悠然と泳いでいた。
宙に浮いたような講義と講義の間の時間がつぶせれば、別に行き先は何処でもよかった。
潰れたようなホットケーキが出てくるいつもの喫茶店でも、先日慶次が5回連続ストライクを出したボーリング場でも、学校帰りの子どもが大人達の目を盗んでサッカーに興じる公園でも、妙に居心地がいい学校の裏の神社でも。
しかし、と元親、今日の2人が時間つぶしに選んだのは駅前の寂れた釣り堀だった。
天気も良かったし、偶には良いか。元親の「偶にゃ釣りでもどうだ」という提案をごはんを食べるように容易く受け入れて、は元親のやたらだだっ広い背中を追いかけ、勇み足でやって来た。
しかし、そこでを待っていたのは目が醒めるような興奮ではなく、今もなおの頭を悩ませる、ただただ眠気を誘う無聊だった。 こんなことならば他の事をすればよかった。
がきゅっと唇を尖らせると、視界の隅で何かを主張するかのように、小さな飛沫が上がるのが見えた。
「…元親がこの子釣った時は入れ食いになると思ってたのになあ」
「ははっ。まあそんなに上手くいかねぇよ」
釣りってのはそんなもんだ、と続ける元親の横顔は眼帯のせいで相変わらずの座っている場所からははっきりとわからなかったが、何故だか妙に楽しそうで、嬉しそうにも見えた。
おや、と不思議に思い、はまた暫く元親の横顔に視線を注ぐも、元親は再び意識を釣り糸の先に集中させ、石になる。
先程となんら変わらない光景が再び舞い戻ってきたが、の胸中を占有していた件の感情はいつの間にか、これまた理由はわからないが、じわじわと形を変えつつあった。
「元親、楽しい?」
「まぁ」
「釣れなくても?」
「そりゃあ釣れるに超したことは無ぇけどよ」
「偉いね」
「…一応聞くけど褒めてんのか?」
「褒めてるよ」
「そりゃどうも」
「よしよし」
戯けるように言う元親へ向けてはそっと右腕を伸ばし、大きな子どもにするかのように、ふわふわとした銀の髪の毛に触れる。
すると、それと同時にまるで電気が走ったように、びくりと大きく元親の上半身が大きく揺れ動き、体重を支えるビールケースがガタッと音を立てた。辛うじてその大きな手から釣り竿を取りこぼすことは無かったが、元親はこめかみに汗を滲ませ、バケツの中の鯉のように口をぱくぱくとさせる。
「……ッ!」
「…えっ…?」
「………」
「……あっ、ふふっ」
その思いがけず出会った大きな仕掛けが可笑しくて、が思わず吹き出すと、元親は犬が唸るように「…テメェ…」と声を絞り出した。
「いやあ、ごめごめん、そんな吃驚するとは思わなくて」
「…………」
「元親?」
「…………」
「怒った?」
「………………怒って無ぇよ」
言って、元親は今度は視線を釣り糸の先ではなく自身の足下へと移す。
その季節のように目まぐるしく変わりゆく挙動と表情は、退屈なんて言葉とはほど遠いなぁと、本人に伝えたら激昂されること間違いなしな事を考えながら、「よかった」と言って、は満足そうに微笑んだ。
「私は釣りより元親が楽しいよ。ほんと退屈しない」
「…………」
「元親?」
「…………お前、マジで覚えとけよ…………」
「えーっ?あははは、」

覚えておけ。何のことか検討も付かない単語を吐き捨てるように言った元親の耳の先が、水面に垂らされた釣り糸の如く“どっちつかず”な2人の背後でぱしゃりと音を立てる鯉の鱗とそっくりになっていた理由をが知るのは、その数日後のことだった。