丁度、今日みたいな日だった。
北風が我が物顔で舞い踊る寒空の下にも関わらず、茹で蛸みたいに耳まで真っ赤になった左近に「俺と、付き合って下さい」という今日日高校生でもしないようなどストレートな告白をされたとき、思わず「それ、言う相手間違ってない?」と私が聞いてしまったことは、ふたりの共通の知人達の間では有名な笑い話である。
2年も前の冬の出来事を今更弁解するわけではないが、その時の私にはからかってやろうとか困らせたいとかいう悪意があったわけでは決して無く、寧ろその逆であり、そんないじわるな感情が沸き上がる隙も無い程に頭の中が「何故、私なのか」というはてなマークで埋め尽くされていたのだから仕方が無い。
島左近という男は、その社会人らしからぬ派手な見た目と愛玩犬のように愛嬌たっぷりな言動から、大方の人間が想像する通り軽薄だ。と、私も例外では無く、彼が自称「サイコーにフレッシュな新人」として入社して来た頃はそう思っていた。
一体どこから情報を仕入れてくるのやら、社内の恋愛事情に噂好きの女性社員と同等かそれ以上に詳しくて、どんな生き方をしていたら知り合うのだろうと問いたくなるような所に知り合いが居て、休日もなにやらあちこち駆け回って忙しそうで。
けれど実際のところ、ただただ軽薄なだけではなく、本人なりに周りに気を遣って生きていて、時に雑に(蚊帳の外から見ているとそんな風に見える)扱われながらも上司からの厚い信用を得ていて、そしてあんな恥ずかしい告白をしてしまう程に不器用であるということがわかる頃には、私は既に彼に所謂“そういった類いの好意”を抱いていたが、彼の人となりが見えてくれば見えてきた分だけ、「こんなに若くて愛らしい生き物と自分とでは釣り合いが取れない」という考えが私の中で大きくなっていった。
だから彼曰く「本気な告白」に「間違ってない?」という、よくよく考えてみれば失礼極まりない返答を寄越してしまったのである。
まあ結果的には、私の突き放すよう問いに対ししどろもどろになりつつも力強く「さんが、良いです」と返してきた左近の告白には0.1%も間違いの要素は含まれておらず、私の疑いの方が100.0%間違いであったのだけれど。
それは「蓋を開けてみなけりゃわからない」ということで、ひとつ。と、ひとまずは私達の間ではそういう話になっていた。
仕事が終わったらそのままスーパーに直行し、夕飯の買い物をしてから私の家へ向かう。
それがここ何ヶ月かの私と左近、ふたりの週末の過ごし方だった。
そう言うと何だか私がえらく家庭的な女のように聞こえるのだが、普段は何かと理由をつけては自炊を極力避けて生きている私よりは、隣で器用に人混みを避けつつカートを押している左近の方がよっぽど色々なことに気がつくし、なんやかんや頼りになる。
キャベツの千切りだって左近の方が上手だし、林檎だって鼻歌交じりにひょひょひょいとうさぎにしてしまう。
本当に、どこまでも狡い男なのだ。と、よそ事を考えていたら、左近が「さん、」と、現実へと引き戻すかのような穏やかな声で私を呼んだ。
「あと何買います?」
「あー…サラダ油。昨日使い切っちゃって」
「りょーかい」
荷物持ちはお任せ下さい、なんてウインクを飛ばしながら買い物カートの向きを変える左近の横顔に向かって「頼りになるなあ」と呟くと、左近は切れ長の目を丸くした後、目尻にたくさんの皺を作ってそれはそれは幸せそうに笑った。
急ぎの仕事を言い渡されたとかで、今週はずっと苦手な早起きをし、夜も遅くまで会社に残っていたようで心配をしていたが、左近の疲れを感じさせないその笑顔に私はほっと胸をなで下ろす。
しかし、彼の纏っているチェスターコートの下から覗くグレーのスーツはやはり少し草臥れていて、週末クリーニングに出してあげなければと、まるでデキた新妻のようなことを思ってしまい、売場へと向かう左近の背中を数歩後ろから追いかけながら人知れず頬を染めるのだった。
結婚願望は元々そんなにあつい方では無いと思うけど、興味が無いわけではない。それに、一足先にゴールインをした高校や大学の同級生に「もそろそろじゃないの?」と言われる度に意識してしまうのも事実である。
左近のことは大好きだし、誰にも渡したくはない。週末だけじゃなくてずっと一緒に居られるのなら、忙しい時に支えてあげられるのならばそれに勝る幸せは無いと思う。
けれども別に一緒に居るだけなら結婚という方法を取らなくたって他にも手段はあるだろうし、第一まだまだ働き盛りで遊びたい盛り(ギャンブルはほどほどにしておいて欲しいけど)の左近にその気は無いかもしれないし。
あと、基本がさつでぽやぽやしている私にきちんと人妻らしく家事が出来るかどうかわからないし。
それに、彼にとっては頼りない私よりも、もっと気立てが良くて、しっかり者の、可愛らしい子と一緒になるべき、かもしれないし。
そんな適当な理由をつけつつ、考えれば考えるほどぬかるみに嵌まるように恥ずかしくなっていく議題から必死に顔を背け、「あ、たまご安い」とタイムセールの品に飛びつくことで顔面に湛えていた複雑怪奇な表情を誤魔化した。
あの日、「間違い」を疑ったあの時から蓋を開けて中身を知った今も、根本的には何も変わっちゃいない。一体何から逃げているのだろうか、私は。
会計を終えてスーパーの外に出ると、唸り声をあげて風が通り過ぎていく。
当然事前に打ち合わせをしたわけでもないのに、身体を縮こまらせながら「さっむ!」と叫ぶ声が見事に重なり、思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
「早く帰りましょ、凍死しそう」
「家に着くまでに凍ったらどうしよう」
「そん時は俺が担いで行きますよ」
「買い物袋も持って?大丈夫?たまご割れない?」
「俺、多分さんが思ってるより力持ちなんで!」
「ひゅー」
「でもたまごは割るかもしんもねぇ」
「駄目じゃん」
わはは、と歩道にふたり分の笑い声がこだまする。
どこの家からか漂ってくるカレーの匂いが、ちょっぴりノスタルジックな気分にさせた。
大通りから脇道に入ると、街灯の明かりが少なくなって、濃紺の空に太り始めた月の明かりがよく映えている。
暗い割りには周りの星もあまりよくは見えず、月も少しだけ寂しそうに思えた。
「左近、仕事忙しい?」
買い物袋を持つ手を変えて、空いた方の手を左近の腕にそっと絡ませながら聞くと、左近はちょっと困った顔をして身体を私の方に寄せ「まあまあっすね」と笑う。
その顔は街灯の灯りのせいか、先程見たときよりも疲労の色が濃く出ていたので、反射的に絡ませた腕に力を込めた。
「まあまあ?」
「まあまあ」
「まあまあか」
「はいっ」
「無理、しないでね」
何故だろう。目の底の方がじわりと熱くなるのを感じながら左近の宝石みたいな茶色い瞳を覗き込むと、左近は私の視線から逃れるように顔を逸らし、蚊の鳴くような声で「ありがとうございます」と呟いた。
「…ま、俺ぁさんが居てくれれば無理も無理じゃなくなりますから」
「何それ。私すごいな」
「いやマジで」
「じゃあ、ずっと一緒にいてあげるね!」
「あー、それ。プロポーズっすか?」
「………ふふふふ。どうだろうねえ~」
プロポーズ。
私の何気ない冗談により、左近の口から不意に転がるように出て来たキーワードに心が揺れ動くのを必死で誤魔化す。自分でも自分の声が上ずっている気もしたが、恐らくは気の所為。そう思い込むことで私はまた逃げる準備をする。
思わぬ所で自分が仕掛けた地雷を踏んでしまったことに、私は相当動揺してしまっていたのだろう。
(大丈夫大丈夫。深い意味は無いから。)
だから、そうやって意味深な笑い声を上げながら自分に言い聞かせることで誤魔化す私の横で、左近がいつの間にかえらく真面目な表情に切り替えたことに全く気づかなかった。
「…さん」
へらへらと空気が抜けた風船みたいに笑う私の横で、突然左近が歩みを止める。
それに連動して立ち止まり、恐る恐るただならぬ雰囲気を纏いつつ月を背負った左近の顔を見ると、彼は今まで見たことがないくらい最高に真面目くさった表情を湛えていた。
どしたの左近。お腹でも痛いの?
そんないつもなら口を次いで出てくる冗談も喉の奥へ押しやってしまうほどに、だ。
「なに?」
いや、見たことがないと言ったら嘘になる。私はこの表情を今まで見たことがないわけではない。
見たことがないわけではない、とかいう曖昧な表現では片付けられないほど見覚えのある表情。
整えられた眉を寄せ、きゅっと固く唇を結び、暗がりの中でもよくわかる程に耳まで赤く染まったこの顔は、
「俺と、結婚して下さい」
「…………それ、言う相手間違ってない?」
ほら見た事か。
と、左近の口から出てきた言葉に対し、冷静になろうとしてなりきれなかった私が窒息死寸前でやっとの思いで返した言葉。
それを全身で受け取って、お地蔵さんみたいにぴくりとも動かなくなってしまった左近は、面食らった様子でひたすら目をぱちくりさせていたが、そのうち小難しそうに寄せていた眉をへにゃりと下げて、「間違ってないっすよ」と力なく、小さく小さく笑った。
「……本気で言ってる?」
「大本気」
「ドッキリ?」
「えー、俺、そんなに信用ないっすか?」
左近が信用できないわけではなかった。程よくおちゃらけて冗談も言うけれど、こんな際どい冗談を言うような人間ではないし、何よりも、あの時と同じく真っ赤になった耳の先が真実を証明していた。
「えっ、結婚、するの?」
「さんさえ良ければ」
「私と左近が?」
「そうっすよ。ほんとはもうちょっと早く言いたかったんですけど…さんあんま興味なさそういっていうか…そういう話題出そうとしなかったから…」
「なんで?」
「ずっと一緒に居て欲しくなったから?」
「なんで疑問形なの?」
「だってさんがめっちゃ質問して来るからぁ」
言って、決まりが悪そうに視線を逸らす左近の耳はやはり何度見ても赤くて、買い物袋の中から覗く長ネギに注がれる行き場をなくした視線は真剣そのもので、なんと言うか、感情を隠すために矢継ぎ早にしていた質問も底をつき、逃げ場を無くした私にとってはもうそれだけで充分お腹いっぱいだった。
「じゃあ、私、左近のお嫁さんになるの?」
絡めていた腕をここで漸く解き、相変わらず迷い犬のような情けない顔をしている左近に正面から向き合う。
道を行く自転車に乗った人が不思議そうに私達を見ていたが、私にはもはや何も気にならなかった。
「そういうことっすね」
「左近、うちのお父さんに『娘さんを下さい』するの?」
「…うわぁそれヤバ。チョー緊張する」
そう言って頭を抱える左近は、声色こそ困り果ててはいたが、その表情は穏やかで、毛布にくるまっているときのような安心感を覚えた。
結婚する。
左近のお嫁さんになる。
赤くなってみたり、困ってみたり、似合わない難しい顔をしてみたり、笑ってみたり。
左近が言う“結婚する”という事は、つまり、ころころと変わる表情も、体温も、ぜんぶぜんぶ私が独り占めしてもいいという事なのだ。
不安なこと、寂しいこと。それから、嬉しいこと。そういうことを、一生ふたりで共有して生きていける権利。
それに気づいて随分と遅れてやってきた幸福という感情につられるように、瞼とお腹の底が熱を持ってくるのがわかる。
ずっと逃げてきたものに追いつかれて、真実を知って、きっと私は泣いてしまいたいのだと気づいたときにはもう遅くて、「んもー泣かないで下さいよお」とほとほと困り果てた左近に、買い物袋ごとぎゅっと抱きしめられていた。
そんなに強く抱きしめたら、おばさんみたいに背中にカイロを貼ってあるのがバレてしまうじゃないか。
あと、スーツに止めどなく出てくる鼻水が付いてしまったら………いや、どうせクリーニングに出すから、そっちは大丈夫か。
頭の中のすべてがグミかマシュマロか、そういった類いのふわふわしたものに詰め変わって、ぐちゃぐちゃだ。
そのまま、もう私の持ってる買い物袋ごと身も心も全部預けてしまおうかとも考えたが、私にはどうしても確かめておきたいことがあった。
「さん?」
緩くて愛しい締め付けから逃れ、私は今一度左近の顔を正面から覗き込む。
真っ赤だった耳の先っぽは、いつの間にか元に戻っていた。
「私で、良いの?」
自分でも吃驚するくらい震えた声で尋ねると、左近はハッと目を見開いた後「さんが、良いです」と、悪戯っぽく笑う。
私と左近。赤の他人が一緒になる、結婚するということが簡単なことではないということはわかっている。
蓋を開けてみなければわからないし、もしかしたら「間違い」なんてこともあるかもしれない。
でも、今の私達にとっては、その答えが――私が良い、という、この2年間私達を繋いできた“正しさ”が――この先60年くらい続く人生のよるべとなる。
それだけは、確かだった。