オールライト


やっぱり、あったかいのにしとけばよかったかもしれない。

そんなことを考えつつ、汗をかいたプラスチックの容器をぺこぺこさせて冷たいカフェオレを啜ると、掌の中で氷が控えめな自己主張をするように小さな音を立てた。
雲らしい雲という障害物もなく陽射しは優しく地上に降り注いでいるが年が明けた辺りから本気を出し始めた北風が容赦なく吹き荒れる、というテンプレートのような冬模様で彩られた後期試験最終日の午後。
私が数秒悩んだ末、冷たい方のカフェオレを買ってしまった売店のある2号館のロビーは、迫り来るレポートの締め切りに怯えたり、最後の悪あがきをしたりする不良学生達で溢れていた。
そんな滑稽な姿を周りに晒す羽目になるくらいならもっと早くから準備に取りかかれば良いものを。なんて心の中で毒づきはするが、自分もつい数時間前までは彼らと大差ない状況に置かれていたのだから、声に出して言うなんてことは出来るはずがない。 来年度はせめてもうちょっと早く準備するか。と、私は高みの見物よろしく彼らを横目で見て、学生が出入りする度に風に揺れる休講情報やらガイダンスのお知らせやらが張り巡らされた入り口付近の掲示板の前で、ひっそりと心に決め、ポケットに突っ込んだままの左手を固く握りしめた時だった。
ちゃん」
「あ。慶次だ」
重たいドアを押し開けて、北風や枯葉や土埃の類いと共に構内に入ってきた慶次に呼ばれ、私は別に用事があって見ていたわけでもない掲示板から目を離して振り返る。
おでんに付けて食べたら美味しそうなからし色のマフラーをぐるぐるに巻き、背中を丸めて「おつかれ」と言ってはにかむ慶次の姿は端的に外の寒さを物語っているようで、先程私の頭に浮かんだ後悔の念を更に色濃くさせた。
これ、飲みきったらあったかいのを買い直そうかな。
「慶次、もう試験終わり?」
「いや、あと1個。次のコマが残ってんだよなぁ」
「それはご愁傷様」
ちゃんは?今帰り?」
「ううん、」
「ああ、わかった。元親待ちか」
成る程ね。私が言う前に自ら答えにたどり着いた慶次は穏やかに言って目尻に皺を刻み、ぼさぼさになった前髪を手櫛で整える。 慶次とは学部も学科も違ったが、一回生の頃から親しくしている気の置けない関係である。
故に今更私と“彼”との関係を含め、何も隠す必要はないのだが、真実を言い当てられたことが何だか妙に気恥ずかしくなって、とりあえず私は「へへへ」とあまり上品では無い笑い方をして有耶無耶にしておいた。
出会った頃からふにゃふにゃと海面に浮かぶ、さざ波みたいな生き方をしてきた慶次も最近はどうやら(9割方孫市のおかげだろうが)真面目に学校に通っているらしく、私は内心ほっと一息吐く。
心配事や悩み事、後悔の種はなるべく少ない方が良い。
別に慶次に自分のことを心配してくれと頼まれたわけでもないし、私も他人のことを心配できる立場にあるのかと問われれば自信を持ってYESとは答えられないのだが、それはまあ今は由としておこうと思う。
どうも私の周りには土の中に埋められたまま春を待たずして腐っていくような類いの種が多く撒かれる傾向にあるのだ。
カフェオレの温かさの選択を含め。
「仲良くやってるようで何より。じゃ、またな」
「うん。また」
簡単に挨拶をし、ひらひらと大きな掌を振り校舎の奥の方へと行く慶次の後ろ姿を見送って、熱を帯びた頬を冷ますべく、再びストローを咥える。
ああ、やっぱり冷たいのを買っておいて良かったのかもしれない。なんてことを考え始めたのと同時に、左手と共にコートのポケットに仕舞っていた携帯電話が震えた。
画面に表示される待ち人の名前と、その横に続けて並ぶ『どこ』の2文字。それを捉えて込み上げて来る笑いを精一杯堪える。 慶次は良い方向へと変わりつつあるが、対してこっちは良くも悪くも相変わらずである。
対照的とも言えるほど、自分としては最大級に丁寧な返信を打ち込んで再びポケットの中にしまい込み、背負っているリュックの紐をかけ直す。
先程慶次が開けて入ってきた物と同じ。重たいドアを押し開けて、随分と不機嫌そう(に見えるだけ)な顔の元親がやって来たのは、それから数分後のことだった。
「お疲れ様。出来はどう?」
「まーまー」
「何それ」
移動中散々風に煽られてきたらしい。彼が着ているモッズコートのフードの先に付いているファーのようにぼさぼさした髪の毛に、ポケットに入れていた左手を伸ばし、整えてあげる。
メッセージの文面同様に、典型的とも言える気のない返事を寄越してはいたが、表情のゆるさから察するに、試験の出来は決して悪くは無かったようだ。 先刻の慶次と大差ない。勝手に察して勝手に腑に落ちて勝手に安堵する。
お手軽な自己完結型コミュニケーションを楽しんでいると、私になされるがままになっていた元親はそのまま更に腰を屈め、未だ私の右手の中で持て余されていたカフェオレのストローをぱくりと咥え、ずずっというあまり耳障りのよくない音を立てた。
「あああっ!?」
高い天井に私の頓狂な声が響き、たまたま通りがかった見知らぬ学生グループが一瞥する。
怒りと少しの恥ずかしさでじわじわと耳の先が熱くなるのを感じた。

「なんだ、こんな寒ぃ中そんなモン飲んでんのかよ」
「それさあ、全部飲んでから言わないでよ~…」
「ごちそーさん」
言って、八重歯を見せて屈託の無い笑顔を見せる元親を最大級の怒りを込めて睨むと、彼は既に空気と氷だけになったプラスチックの容器を私から取り上げ、顔の前に態とらしく掲げる。
それから今にも掴みかかろうとしている私を容器を持ったままの手で雑に制しつつ、手早く草臥れたショルダーバッグの中を探って何かを取り出すと、「ほらよ」と私の手を取り握らせた。
まるで100点を取って帰ってきた子どものようににこにこと得意気な顔をしている元親から、温もりを帯び始めた手元にゆっくり視線を移す。
すると、いつだったか学校帰りにビレバンで買った、彼の履いているスニーカーの靴紐と同じ。オレンジ色のキャップのついた午後ティーのペットボトルが目に入った。
「わ」
「どうだ?機嫌、直ったろ?」
「うん。直った」
「マジか。はえーな」
少しだけ呆れたように言う元親に感謝の気持ちと少しの悪意を込め、半ば突進するように身体を寄せれば、彼は私の身体を全身で受け止める代わりに「行くぞ」と空っぽの方の手で私の腕を引っ張り、乱雑にドアを引き開けて歩き出す。
同時に遠慮の無い北風の洗礼を受けるが、手の中にあるペットボルトのせいか、はたまた体温のせいか。不思議と寒さは感じなかった。
元親は「さっぶ」と悪態を吐くように言い、そのまま雫が葉っぱの根元から先へと伝うように自然な動きで私の指先に自分の指を絡ませる。
「さっぶ」と言う割りにはその指先は熱を帯びていて、再び笑いが込み上がってくる。
右手に寒がりな彼の熱。左手に280mlの人工的な熱。
あつあつの珈琲にミルクを垂らしたときみたいにぐるぐると円を描きながら私の中で混ざっていくそれらふたつともを取りこぼさないよう、大事に大事に包み込むと、視界の隅で元親が犬のように大きな欠伸をするのが見えた。
春はまだ遠いが、ふたりの周りだけ時間が進む速度を早回ししたかのように暖かい。
しゃくしゃくと構内に散らばる枯れ葉を鳴らしながら、やはり冷たいのにしておいてよかったと、私はここで漸く自分の選択に対する確信を得たのだった。