テレビも電気も点けっぱなしだった。お風呂から上がって、大して面白くもない不倫がテーマのドラマを見つつ雑に乾かした髪の毛はまだ少し濡れていて気持ちが悪い。頬に張り付く毛先を払いながら肌触りの良い革張りのソファからむくりと起き上がると、反動で足元に布のようなものが落ちるのを視界の隅で捉えた。枕にしていたクッションの横に置いていたスマホを見れば、リボ払いがどうのとかいう迷惑メールが1件だけ。画面の上に表示されている時計を見ると、丁度午前零時を回ったところだった。自分が暮らす部屋なのに、どことなく居心地が悪い。胸の奥に芽ばえた違和感を軽く撫でつつ、そのままことりと音を立ててスマホを置いたテーブルの上に目をやれば、置きっぱなしにしていたはずのグラスやら雑誌やらは何処かへ片付けられ、テレビのリモコンだけが鎮座しており、ここで私の中の疑いははっきりとした確信に変わる。寝起きでいつも以上に回らない頭とは裏腹に、通常通り稼働している鼻腔を擽る、元来深夜には似つかわしくない珈琲の香り。ソファの下へと手を伸ばし、自分で掛けた覚えの無いブランケットを引っ張り上げながら「半兵衛、」と呟くと、まるでそれを待ち構えていたかのような絶妙なタイミングで、彼が愛用の湯気が立ち上るマグカップを片手に、キッチンからひょこりと顔を出した。
「起きたの」
「おきたよ」
匂い、光り、音。絶え間なく与えられる色んな刺激によって段々と私の脳みそはうっかり寝落ちしてしまう前くらいまでの働きはするようになったが、口は上手く回らない。自分でも笑ってしまうくらい舌っ足らずで掠れた声で半兵衛からの呼びかけに応じると、彼は湯気の向こうで、マグカップの中の珈琲くらい苦みのある笑みを浮かべた。
「…いつ帰ったの?」
「1時間くらい前?」
「起こしてよ」
「偶には良いかなと思ってね」
何がだよ。と食らいつきたくなる気持ちを抑え(その必要は無いと言えば無いのだけど、なんとなく止めておいた)、彼が腰を下ろせるようにブランケットを握りしめたまま、ソファの端っこにお尻を移動させる。毛足の長いスリッパをとすとす鳴らしながら珈琲の香りと共に歩み寄った半兵衛が私の空けてあげたスペースに腰を下ろすと、革張りのソファがぎしりと鳴く。
「もう、日付変わってるよ」
「そうだね」
「そんなの飲んで、寝られるの?」
「一杯くらいなら大したことないよ」
「そうなの」
「そうだよ」
ずず、と音を立て、厚めのカップに口を付ける半兵衛からは、苦い匂いに混じって自分と同じ、シャンプーの匂いもする。大した拘りもなく、彼が選んだのをそのまま使ってるからよくわかんないけど、多分、花の匂い。手持ち無沙汰にしていた左手を伸ばし、ゆるりと波打つ髪の先に触れると、良く乾かさなかったのだろう。私と同じく、少し湿っていた。
ぼんやりと深夜のニュース番組を眺める半兵衛は「くすぐったい」と肩を竦めるものの、「止めろ」とは言わない。それに甘んじて、くるくると指先に巻き付けて私は遊ぶ。そういや、髪、伸びたなあ。ここ最近は毎日帰りも遅く、週末もなんやかんや忙しそうにしているし、髪を切りに行っている様子もないから当然か。蛍光灯の下、巻き付けた白く輝く毛先に見惚れていると、やがて音も無くその手を取られた。地味に込められている力。少しだけ、痛かった。
「…なに」
「いや。それはこっちの台詞なんだけど」
「……。半兵衛、髪伸びたね」
「暫く切ってないからね」
「切らないの?」
「そうだねえ。今週末、切りに行こうかな」
「…うん。それがいいよ」
頷くと、取られたままの左手が、そのまま石鹸の匂いの残る彼の頬へと触れる。今日の半兵衛からは、色々な匂いがする。全部全部それらは前から知っている、嗅ぎ飽きた匂いばかりなはずなのに、息をする度に苦しくて、泣きたくなるのはどうしてだろう。理由はわからないが、どうしようもなく、哀しいのだ。細い輪郭を指先でとんとんと叩きながら考えていると、「の手は暖かいね」と、半兵衛は私の手中で少しだけ寂しそうに笑うのだった。
「…眠いから」
「寝ても良いよ」
「ここで?」
「良いよ」
「ベッドまで運んでくれんの?」
「うーん、今日だけ。特別ね」
「うそ。ほんと?なんで?」
「偶には、良いかな」
悪戯っぽく言うと(またそれか)、半兵衛は自身に添えたままにしていた私の左手に束の間の自由を与え、そのまま背中に手を回して抱き寄せる。一瞬ふわりと香った花のような甘い匂いはどちらのものか。今となってはわからないし、まあ、どうでもいい。回された腕に、じりじりと力がこもるのを感じ、私は堪らなくなって肩口に顔を埋める。息が苦しい。しかし私を取り巻いていた正体不明の哀しみは、胸の奥からすうっと、まるで風船から空気が抜けるように、出ていくのを感じていた。
「半兵衛」
「なんだい?」
「……あの、髪の毛、」
「うん?」
「………」
「…切るの、やっぱり来週にしようかな」
「……うん」
それがいいよ。ぽつりと零した私の言葉を水面から掬い上げるように、半兵衛は背中に回していた腕を解き、ご丁寧に私の両頬に手を添えてから、触れるだけのキスをする。柔らかな眼差しに抱かれながら、私の意識は匂いと共に溶けていく。