開店休業


一際強く吹き抜けた潮風と共に西日が急に強くなったような気がして、夏が待てずに先日衝動買いしてしまった麦わら帽子を深く被り直す。今朝学校に行く前、もむもむとパンを囓りながら惰性で見ていたテレビに出ていたお天気お姉さんによると、今年はどうやら空梅雨らしい。梅雨入りしてから2週間ちょっと。確かに言われてみれば、ここのところぱっとしない空模様が続いた割りに傘の出番はそんなに無かったような気もするし、現に今私と目の前に広がる砂浜の上に覆い被さっているのは一足先に夏が来たのではないかと疑ってしまう程鮮やかでノスタルジックな夕焼け空だ。写真に撮って飾りたいくらいの。これだけ雨が降らないとやはり心配なのは水不足ですねぇ~なんて件のお天気お姉さんは困り顔を浮かべて見せていたものの、いざ海を前にすると「いや、世の中にはこんだけ水があるからダムの水もどうにかなるんじゃ」と楽観的になってしまうから駄目だと思う。学生とは言え法律的には私も大人なのだから、もっと真剣に、自分の今後の生活について考えを改めるべきだと思う。でも哀しいことに、人間とは基本的に目の前にある物事を中心にしか考えられない生き物なのである。そして、きっとあのお姉さんだってこの風景を見たら何も言わなくなる筈だ。っていうか元々彼女もそんなに深くは考えてないと思う。まあ、これは主に私の持論だけど。
そんな退屈にただ流れていく時間の中で何の生産性も無いことを考えていると、夕立のように前触れも無く長い影が急に足元に落ちてくる。嗚呼、やっと帰ってきた。心の中で毒づきながら、私は必要以上に勿体付けながら顔を上げる。帽子のつばの合間から覗く陽射しはいくら夕刻と言えども結構眩しかったが、それを背負う待ち人の透き通るような銀髪もまた然りだった。
「…、スカートの裾捲れてんぞ」
「…やらし~…」
「馬鹿言ってんじゃねぇ」
「いたっ」
ちったァ人の目ェ気にしろやバーカ。私が知る限り、この世で1番不景気な面を下げ、キンキンに冷えた瓶のコーラ(さっきから姿が見えないと思ったらこれを調達に行っていたらしい)で私の頭を小突いた後、ずいっと胸の前に差し出す失礼極まりない影の主――元親をただ黙って横目で見ていると、「ンだよ、要らねぇのかよ」とこれまたぶっきらぼうに宣った。たった10秒の間に2度も『馬鹿』と言われたことに腹を立てつつも、瓶のコーラには罪は無いので「どーも」と簡素な礼を述べありがたく受け取れば、それに連動するようにして元親は得意気に笑う。それにまた連動するようにして、私の口角も自然と上がる。そんないつものお手軽簡単な連鎖反応を繰り広げている2人の前を、寄せては返すを繰り返す海の淵をなぞるようにして、健康的な肌の色をしたサーファーが赤い宝石みたいな色のボードを抱え、悠々と横切って行くのが見えた。
「うみはひろいなおおきいな」
「その上月は昇るし日が沈むと来る。最高だろうが」
「…うん、まあ、否定はしない」
「そいつぁ良かった」
西日を遮るように、やたら大きな図体をどかりと私の左側に置いた元親は小気味良く喉を鳴らしながらコーラを飲む。その視線の先には、私と同じ。黄金色に染まる海がある。言い換えると、2人の前には海しかない。あとは周りに夏を目前にして準備を進めているらしい海の家だとか、元親に「海行くぞ海」と学校帰りに半ば連行される形で連れてこられ、到着した後すぐ着工したものの、数分で飽きてしまった建設途中の私の砂の城だとか、遙か遠くから漂着したゴミだとか海草だとか、そんな物しかない。そう、文字にしてしまえば無為無聊極まりない空間だが、決して悪くは無い。理屈では無く、感覚でそう思う。私の性格上、はっきりさせておきたいと思わないことも無いけれど、とりあえず今は元親が有り難くも奢ってくれた瓶のコーラの美味しさと、目が離せない程の美しさを見せつける夕陽だけで十分だと思った。なにせ、目の前にある物事を中心にしか考えられない生き物だから、人間は。
「瓶のコーラって何でこんなに美味しいんだろうね」
「そりゃあお前、あれだ。相乗効果ってやつだ」
「うん、意味がわからない」
「…せめて話くらい聞けや…」
「何でも良いよ。瓶のコーラが美味しいって事実があれば、それで」
「ね?」と、考えることを放棄して、少しふて腐れている元親の顔を覗き込む。見るからに「テメェで話を振っといてそれは無ェだろ」的な、そんな何か言いたげな様子だったが、やがて眉間によっていた皺は波が引くように、コーラの泡が溶けるように消えて行った。広くて大きな海の前では難しい事は考えない。たった今、私はそう決めたのだ。
「ねえ元親」
「ンだよ」
潮風を受けてはらはらと遊ぶロングスカートの裾を押さえ、少しだけ腰を浮かせてつれない返事をする元親の方へ体を向ける。今日の夕焼けも、そろそろ見納めの時間となる。名残惜しいが、美しい物には必ず限りがあるのだから仕方が無い。近くの道路を走る車の音と、波の音。それらをBGMにして考えながら、私はへらりと笑って見せる。潮風香る空間で瞬く元親の右目は、来る夏を思わせる色が散りばめられていて、きれいだと思った。
「また、連れてきてくれても良いよ」
「……おう」
良い子にしてたらな。
消え掛けの蝋燭みたいな灯りの中、元親は私の頬に手を添えて、夏休みの少年のように笑った。汗を掻いていた瓶のせいで少しだけひんやりとした指先の感触に目を細めながら、私はひたすらに、必ず来る未来へと期待を膨らませる。