月ほど近くない


暑い。夏で、週末で、砂浜で。という、いかにもなこのシチュエーションがまた暑さを増長させているのだろうか。気持ちの問題ってのは結構重要なウエイトを占めるから。でも、暑い割りに、ここのところぱっとしない天気が続いている。みんなが待っていた夏らしい夏は何処に行ってしまったのか。そう嘆いても天には届くはずも無いし、届いたところでどうにもならないのだろう。諦めのような悟りのような、よくわからない気持ちを携えて綿飴くらいの厚さの雲に覆われた西の空を見ると、傾き始めた太陽の光が認識できた。いーかんじ。レジャーシートの上に置きっぱなしにしていた携帯電話に手を伸ばし、カメラを起動させる。画面に映った空は今目に映っているものと比べると劣るが、まあ充分だろう。私がかしゃっと乾いた音を鳴らすと、隣で読書に没頭(よくこんな暑い中でそんな分厚い本が読めるものだ)していた半兵衛が驚いたように顔を上げた。
「えっ。何」
「えっ。それはこっちの台詞なんだけど」
「何撮ったの?」
「天使の梯子」
対岸。レゴブロックみたいなビル群が広がる西の空を指す。先週末、気まぐれで塗ってみたラベンダー色のマニキュアが剥がれかけているのに気付いて、私の気分はまた少しだけ落ち込む。慣れないことはするものではない。この間もそう言って半兵衛に叱られたばかりなのに。何をしたのかは忘れたけれど。
「別名、薄明光線」
「よく知ってるね」
「だって半兵衛が教えてくれたじゃない」
「そうだっけ」
「そうだよ多分。すっごい昔」
じゃなきゃ私がそんなこと知るはずが無いもん。ふふんと鼻を鳴らして笑う。それを見て半兵衛は遅い瞬きをした後、汗を掻くみたいにじわりと微笑んだ。気心の知れた幼なじみである半兵衛の話は長いし回りくどい。それから私にとっては面白くない内容のことが多い。大体君は、という定型文からお説教が始まって、はいはいと答える。はいは1回。はぁい。そんな単純明快なサイクルも、20年以上繰り返せば無くてはならない、とまでは到底いかないけど、無いと何か調子が狂う存在になるのだから不思議だ。それはいくら暑くても、夏が夏らしく、夏らしい青空を広げてくれないと寂しいっていうのと少し似ていると思う。
「暑いね」
「夏だからね」
夏は暑いもの。そんでもって、半兵衛はちょっと五月蠅いもの。そう、相場が決まっているのだ。私の中で。夏の空は低く、炎天下の海はぬるい。色に惹かれてついつい選んでしまうブルーハワイのかき氷。どれだけ上手に歩いても砂だらけになってしまうサンダル。それらは私にとっては当たり前で、覆すことの出来ない真理。でも、隣で退屈そうに海を眺めている涼しげな目元の彼はどうなのだろう。彼にとっての夏は、私は、どうなのだろう。物心ついたときから、地球の周りをぐるぐる回る月みたいに側に居た存在。天使の梯子。薄明光線。私の知らないことを頭の中に沢山詰めている半兵衛に、この世界はどんな風に映っているのだろう。そんなことを考えていると、考えたら考えた分だけ身近で確実な存在が遠のいていくようで、何だか無性に寂しくなってしまうのだった。考えなくてもいいのに。こんなに暑いから、考えなくても良いことも考えてしまう。これもまた、そういうものなのだ。

沖の方で跳ねる魚と波打ち際を列になって歩く家族連れを見つつ、ずっと同じ体勢で座っていたことにより、ひりひりと痛みだしたお尻を軽く浮かせて座り直す。しゃくっと鳴るレジャーシートの音を聞いて、半兵衛は「そろそろ帰ろうか」と言い、傍らに本を置いた。
「…ねえ半兵衛」
「なんだい?」
「半兵衛は何を考えてるの?」
「……………………は?」
あんまり聞いたことがない声を上げて固まる半兵衛の顔には、『何を言ってるんだこの子は』。そう、書いてあった。それはちょっと面白かったけれど、多分私が逆の立場だったとしたら同じような反応をしたんだろうな、と思うと複雑な気持ちになる。ごめんね。無邪気な笑顔を作って笑うと、半兵衛は何も言わない代わりに唇の端を上げてゆったりと立ち上がる。写真で切り取った時より少しだけトーンを落とした空を背負って立つ彼がやたらに眩しく見えるのは、開放的な空間に居るからだろう。これもまた、気持ちの問題。眩しいそれに手を伸ばす。届きそうで届かない。物理的な距離感がまた、私を虚しくさせる。虚無感に苛まれ、空っぽ同然になった私の伸ばした手に、天使の梯子を教えてくれた頃に比べると大きくなった(であろう)掌が重なる。気温の割りには冷たい気がするそれを不思議だなあと思っていると、その薄い体のどこにそんな力が隠されているのか。勢いよく、柔らかな砂浜の上に引き起こされた。
「わ」
「そんな吃驚する?」
「………するよお」
全てを知り尽くされた今、隠すことも照れることも何も無いはずなのに何故だか妙に照れくさくて、汚れていないのにスカートの砂をぽふぽふと払う振りをしていると、さっきよりも近くなった半兵衛がくすくすと声を上げながら、長い睫を伏せて笑う。覚えてろよこのやろう。いや、きっと私の方が先に忘れちゃうけど。
は愉快だね」
「…ほんと何考えてんのかわかんない」
「それはお互い様」
諭すように笑うと、半兵衛は繋いだままにしていた手を、まるで割れ物に触るかのようにすら思えるほど慎重な動作で解く。やっぱり、わからない。草臥れたレジャーシートを畳む背中に向けてぽつりと呟いた「おたがいさま」という言葉が夏の喧噪と同化していくのと、得体の知れない、なにやらふわふわした気持ちでお腹が満たされていくのを感じながら、私は小さくあくびをした。