昔々、と言ってもそれほど昔じゃない。白雪姫が毒林檎を食べた頃ほど昔ではなく、桃太郎が鬼退治に出掛けた頃ほども昔ではない、20年とちょっと前くらいのこと。私が生まれ育った家のお隣には、年中手入れの届いた綺麗な庭のある一軒のお家があり、そこには私の1個上の男の子が優しいご両親と共に住んでいた。そんな、自分の意志とは関係なく、幸か不幸かたまたまその男の子の幼なじみというポジションに生まれながらにして就いてしまった私が、もしお隣の彼のことをよく知らない人物から彼を一言で表せとかいう質問をされたとすれば、シンキングタイムを貰うまでも無く即座にこう答える。“完全無欠”。ただし、やや病気がちなところと本来人として持つべき様々な感情や感覚がところどころ欠如した性格を除いては、というご丁寧な注釈を添えて。前者はともかく、後者に関しては私もティーンエイジャーの頃(バレンタインデー、クリスマス、誕生日、卒業式等々の“お約束”イベントの時期を中心としたほぼ毎日。詳細は省略する)間接的に被害を被ってきたので、腹の中に抱える恨み辛みもそれなりだ。10年も経てば時効時効。そんな風に笑う、私と彼共通の古い友人も約1名くらい居るし、実際十年物のそれらは新鮮さをとうの昔に失ってはいるけれど、ひょんな時に思い出されるからやはり厄介だと思う。例えば風呂上がり、寝るまでの暇つぶしにアルバムを見ている今みたいな時に。
ぐしゅん。
ソファーに俯せになったまま、我ながら可愛げの無いくしゃみをすると、背中に柔らかい塊が乱雑に投げられた。「髪、ちゃんと乾かさないから」風邪引くよ。パソコンに向かいながら呆れるように言う、嘗てお隣に住んでいた男の子――半兵衛から投げて寄越されたブランケットを広げて肩に掛ける。綿のパジャマはお隣の男の子から同居人へと関係が変わった彼が言う通り、よく髪を乾かさなかったせいでしっとりしていた。ナマケモノみたいにぶらんと手を伸ばして、カーペットの上に置かれたティッシュボックスからティッシュを取ってずずっと鼻をかむ。先程まで抱えていた曇り空みたいな気持ちと一緒にティッシュを丸めて彼が向かうデスクの足元にあるゴミ箱に投げると、その一連の流れを見ていた半兵衛は、1時間くらい前に淹れていたのですっかり冷めているであろう珈琲を飲み、呆れたように浅い溜息を吐いた。
「なにか文句でも?」
「……寝ないのかい?」
「半兵衛が寝るの待ってんの知ってて聞いてるでしょそれ」
「ごめんごめん」
もうすぐ終わるから。そう言って目を細める姿に昔日の面影は――うん、少し、あるかな。開きっぱなしにしていたアルバムに目を落とし、近所のお祭りの帰りだろうか、お揃いの法被を着てピースをしている幼き日の私達の写真を見て考える。
「この頃の半兵衛は本当にかわいかった」
再びソファに体を沈め、写真を指先でなぞりながら呟く。少しの間があった後、半兵衛は躊躇いがちに「…どうも」と相槌を寄越した。
「それがまさか将来何百人もの女を泣かせる事になるなんて…」
「何百は盛りすぎじゃないか」
「泣かせた事は否定しないんだ」
「正確には泣かせたんじゃなくて彼女たちが勝手に泣いただけ、だけどね」
「大差ないよそれ」
性格悪っ。大して悪びれた様子も無く肩を竦める半兵衛に対抗するようにべーっと舌先を出して見せると、彼は口元に手をやり、何がそんなに可笑しいのか、くすくすと笑い声を上げた。風鈴みたいな涼しい声。笑ったとき目元に寄る皺。夜空に瞬く星みたいな色の髪。やはり昔日の面影がありすぎる。ありすぎるから、私はまた困ってしまうのだ。
「…半兵衛は変わらないね」
「変わった方が良かったかい?」
ぱたんと音を立ててアルバムを閉じ、ケースにしまいながら私がぽつりと零すと、漸く作業を終えたらしい。パソコンの電源を落とし、周辺に散らばったコード類を纏めながら半兵衛は少しいじわるをしてやろうと思っている時の顔をした。いじわるをされる対象の私は少し怯みながらも「…そんなこと言ってないじゃん」と返せば、彼は満足したように「そうかい」と言ってまたくすくすと笑った。
反動をつけてよいしょとソファから起き上がる。それによって私の肩からずり落ちたブランケットを手に取り几帳面に畳む半兵衛を横目で見ながら、上の方までびっちりと彼のコレクションである本たちが詰められた威圧感のある本棚の1番下の段にアルバムを押し込んでいると、半兵衛は私の隣に並び、羽のように軽い動作でアルバムを横から割り込むようにしてひょいと取り上げる。
「え」
突然のことにしゃがんだまま呆気にとられていると、同じくしゃがんだままの体勢で横取りしたアルバムを開き、音も無く静かにゆっくりとページを捲っていた半兵衛が顔を上げ、「僕も久しぶりに見たくなって」と口の端を吊り上げる。いやいやいや、だったら一言言えばいいじゃん。私が仕舞う前にさあ。彼に対する不平不満をごくりと飲み込む代わりに唇の先を尖らせて、石鹸の匂いがする腕に頬を擦り寄せると、彼は擽ったそうに身じろいだ後、視線はアルバムに落としたまま、ページを捲っていた方の手でまだ湿っている私の髪を撫でた。
「も変わらないねぇ」
「それ、さっきの仕返し?」
「ふふ」
その笑いは否定肯定どちらなの。問いかければ良かったが、なんとなくやめておいた。どちらでもいい。そう思ってしまったから。言葉の代わりに頬を寄せていた腕を取る。体重を移動したことで体の軸がぶれ、二人とも少しぐらついたが、すぐに丁度良いところに心も身体も収まった。
「半兵衛」
やがて、満足したのか。アルバムを閉じ、本棚にしまい始めた半兵衛を呼ぶと、呼びかけに答えるように首を傾げ、「ん?」と私の顔を覗き込む。ひとりで歩く夜道で何も言わず見守ってくれる三日月みたいな視線に、微睡みの中へぐいぐいと引っ張られる。いつもは薄暗く感じてしまう本棚の脇の間接照明が、今だけはやたら眩しく感じられた。
「……半兵衛に泣かされるのは、私だけで充分だよ」
眠たいのと、自分で言っておきながら何故だか気恥ずかしかったの。その両方を隠すようにして、彼が押し込んだアルバムの厚い背表紙をじっと見つめる。視界の隅っこで目を見開く彼の表情が暖かさを取り戻すのを捉えるのとほぼ同時に、雪崩の如く、半兵衛の胸に倒れ込むようにして抱きつく。
「困った子だね」
今も昔も。言葉の割りには楽しそうな声で言いながらぽふぽふと私の背中を叩く半兵衛に、ぎゅうっとしがみつこうとすればするほど胸が締め付けられるのは何故だろう。昔々。そう言って始まる物語は、大抵愛とか希望に溢れた壮大な終わりを迎える。でも、私はいいや。――少なくとも、今は。そんで多分、これからも。そんなことを昔と変わらない、甘い匂いの広がる胸の中で考えながら、私はそっと目を閉じる。