フラッシュダンスは終わらない


こんなに寒くなるだなんて聞いてない!僕の隣を歩きながらそう言うちゃんの顔は、言葉の割には穏やか、というか、なんだか楽しそうですらあった。月が変わってから朝晩の冷え込みは一層強くなり、僕も日課である早朝のランニングに出かけるのに少しだけ躊躇うようになってきた。それでも、サボったところで誰かに咎められるわけでもないのに、布団を撥ね退けひんやりとしたドアノブに手を掛けることを一日たりとも欠かしていないあたり、我ながら本当に生真面目だと思うし、ある意味では天邪鬼だとも思う。そしてそれは言葉と表情が一致していないちゃんと同じだ、とも。一方的に重ねて満足して、ご満悦な僕は冷え切った指先を隠すようにして、スカジャンのポケットに両手を突っ込む。対して彼女はと言えば、少し乾燥した指先をぐーぱーぐーぱーと、せわしなく結んで開いている。その規則的なようで不規則な動きが面白くて、思わず見惚れてしまう。
「嬉しそうだね」
「嬉しくないよ」
ざくっざくっという、ふたり分の態とらしい足音が回廊みたいなプラタナスの並木道に響く。諸悪の根源たる乾ききった北風が無数にぶら下がる掌みたいな葉っぱを揺らすと、生粋の天邪鬼のちゃんは僕の呼びかけに対して、おまけにもう一つ「嬉しくない」と言って目を細めた。
「イワンは寒いの得意な人?」
「いや、得意じゃない…というかそもそも得意な人って居るのかな?」
「わかんない。シロクマとか?」
「シロクマは人じゃないよ」
「そうだった」
唇の両端に悪戯な笑みを蓄えて、ちゃんは急に歩く速度を上げる。ワルツの一歩目のステップを踏むように、力強く。僕の眼が映す並木道に加わった後ろ姿。特筆すべき点は見当たらない。けれど静かに確実に、僕の心は得体のしれないふわふわしたものに蝕まれ、捕らわれる。理由は僕にはわかっている。そしてちゃんには、できれば、まだわかって欲しくない。なんてね。三日月みたいなカーブを描く耳の形がよく見える、高い位置で結わいた髪の毛の先が風に遊ばれるのをぼんやりと眺めながら、宙ぶらりんになったままの心は枯葉と共に揺れ続ける。けれどもいつかは地に落ち土に還るそれとは違い、僕の大事に大事に温めすぎて最近は少しずつ溶け始めてきたようにすら思う、ちゃんへの気持ちの行く先は決まっていない。いっそこのまま土に還した方がお互いのためなのかもしれない。なんてことは、色々と勝手に察してくれて色々と勝手に助言をくれる仕事仲間達の前では口が裂けても言えないけど。ぐるぐると思考を堂々巡りさせながら3歩半くらい先を行くちゃんの背中を距離を縮めるでも広がらせるでもなく絶妙な距離感を保ちつつ追いかけていると、ちゃんは肩越しに僕を振り返りながら再び口を開いた。
「それにしても、寒い」
「うん」
「イワン」
「何?」
「手でも繋いでみる?」
「な……ッ!?」
「じょーだんだよ」
私の手、冷たいしねえ。歩みを止め、それはそれは楽しそうに、ちゃんは片目を瞑り、ひらひらと顔の横で掌を揺らす。心臓の音がうるさい。なんてことない所作のひとつひとつが、僕にとっては安っぽい映画のワンシーンみたいに、音抜きのスローモーションで再生されるようだった。
「氷みたいに冷たいから、ホント。氷の女王だから、私」
「……そう」
「うん。だから、駄目だよ」
触らせてあげらんない。
理由はわからない。けれど、ちゃんは少し困った風に笑う。冗談を言うにしては、寂しそうに笑う。どうしてだろう。でも僕は聞かない。3歩半の距離が縮まるまでは、聞いてはいけないと思った。なんとなく。なんとなく。
「行こ」
日が暮れちゃう。歌うように言って、再び背を向け、ちゃんは歩き始める。揺れる毛先、乾いた指先、赤く染まった三日月みたいな耳の先を携えて。それに対して掠れた声で「うん」と返すことしか出来ない僕は、また枯葉の海を泳ぐ。深まる季節の行く先は、きっとポケットの中でほんのり湿る指先しか知らないのだろう。