駅前の大きな通りから一本脇に入った川沿いの道は、街灯も少ないせいか他の場所より星がよく見える気がした。と言っても、いつだったかふらりと立ち寄ったプラネタリウム程ではないし、今宵の主役である肥り始めた月に、星々も幾らか引け目を感じているようでもあるのだけれど。
忘年会と銘打ってただ飲んで騒ぎたかっただけらしい、左近主催の飲み会からの帰り道。髪の毛一本一本にまで染み付いたアルコールとニコチンの賑やかな匂いを感じながら後ろを振り返ると、そこには私と同じように夜空を見上げる三成の姿があった。
「まぶしい」
月が。これでもかと言うほどに、ぐるぐるに巻いたマフラーの隙間から白い息と共に言葉を吐き出せば、夜空に向けられていた鋭利な視線がこちらに向けられる。それに込められるのは恐らく同意でも否定でも、興味でも無関心でもない。じゃあ何なのかと問われれば返答に困ってしまうのだが。でもそれがいかにも三成らしい。たったその一言で片づけてしまえる私は、結構重症と言える所まで来ているのかもしれなかった。
三成は三日月に似ている。そう最初に思ったのは多分、私が初めて彼のことを認識した日。まだ窮屈な制服に縛られていた高校生の頃だった。具体的な時間や会話の内容(というか、会話をしたかどうかすら怪しい)は思い出せないけれど、開け放たれた生徒会室の窓から入ってくる青い草と土埃の匂いと、幼馴染である半兵衛の隣で影みたいにただじっと佇んでいる三成の姿。それだけは何故だかはっきりと覚えていた。今日みたいに肥えかけた月でも、悲しみの欠片をひとつも持たない満月でもない。ひとりで立って歩いて行ける強さと脆さの両方を携えた三日月こそ、彼に相応しい。認識はしていながらも殆ど会話をすることなく過ぎていったモラトリアム真っ只中のあの頃から10年近く経った今、色あせつつある記憶の欠片を基に、そんな風に改めて思うのだった。
「まぶしい」
まぶしい。まぶしい。三成の隣に並び、海溝より深い濃紺の空を見上げたまま譫言のように呟くと、三成は視界の隅で音も無く小首を傾げた。
「月が、か?」
「そう、月が」
「……私にはそうは見えん」
呑みすぎたか?そう言って、視線を何十万キロも離れた月と私との間で忙しなく往復させる。その動作が妙に私のツボを刺激して吹き出せば、「何が可笑しい」と、心底不思議そうに、そして不機嫌そうにまた首を計算されているのかと疑ってしまうほど絶妙な角度に傾けてしまう。
「転ぶなよ」
「今日は酔ってないよ」
「貴様の言うことは信用できん」
「それってちょっと酷くない?」
「ふん」
軽妙に鼻を鳴らしながら三成は空中を彷徨う私の手を取り、予告もなしに歩き始める。逃がさないと言わんばかりにがっちりと絡めとられた指先は氷のように冷たかったが、受け止めきれずに泣いてしまいそうになるほどの熱が、触れ合ったところから直接流れ込んでくるようだった。本物の月も、触れることが出来るとするならば、こんな風に優しく哀しい気持ちになれるのだろうか。どれだけ表面は冷たくても、触れたところから癒されていくような。ぐいぐいと引っ張られながら機能しない頭でそんなことを考えてしまう私は、やはり少し酔っ払っているのかもしれない。いや、酔っていると認められれば、楽に違いないなのだ。でもそれをすることを最後の一瞬まで拒否するのは、私の意地というやつだった。
「三成」
あの頃は触れられるだなんて、手を伸ばそうだなんて思いもしなかった月。それが不思議な引力に導かれて、今こうして私の手を包んでいる。奇妙な感覚を覚えながら名前を呼ぶと、三成は律義に立ち止まり、私の方を振り返る。街灯の下で揺れる銀髪と月色の瞳が気味が悪いほどに美しかった。
「何だ」
「お月様が欲しい」
「……馬鹿を言うな」
私の壮大で他愛ない願い事に呆れたのだろう。三成は長く細い溜息を吐くものの、触れ合った手は離そうとしない。それどころかより一層、離してなるものかというほどに力を込める。酔っ払っているのは三成の方ではないのかしら。月を指していた指を下ろし、くすりと笑い声を漏らすと、三成もつられるようにして「ふ」と空気の抜けるように笑った。それは月を隠す雲の切れ端のような。それは三日月の先っぽのような。それは月影に霞んでしまう星々のような。色んな比喩が電流のように私の脳内を駆け巡るが、どれもしっくり来ないのは、私が酔っ払っているからでも三成が酔っ払っているからでもなく、今宵の月が私たちの行く手をくっきり照らし出すほどにまぶしすぎるから。根拠はないけど、たぶんそう。
「三成ぃ」
「今度はなんだ」
「ありがとね。手ぇ引いてくれて」
「……貴様が気を回すところでは無い」
当然のことだ。
そう。素っ気ない相槌を打てば、三成の視線は夜空を経由し再び二人の行く手に注がれる。当然。当然。とーぜん。そっか。とーぜんなのか。頭の中を満たしていくやわらかいその単語が温めたマシュマロみたいに溶ける頃、私は気づく。彼が照らす道の正しさに。月面の暖かさに。自身が眩しいからこそわからない、今宵の月の明るさに。体の内側が火が付いたように(断じて言える。アルコールのせいではないと!)暖かくなるのを感じながら、黒いスヌードに埋まるように頷く三成の鼻先がほんのり赤くなっていること。私を包む掌の温度が5度くらい上がった気がすること。ただでさえ眩しい月明かりがより一層まぶしくなったような気がすること。残り僅かな帰路で、私はどれから不器用にエスコートしてくれる三成に伝えようかと考えていた。