年末ということもあってか終電も近い下り電車はガラガラで、この車両にも私と元親以外の乗客は数人だけしか居なかった。外が暗いせいか、向かいの窓ガラスに写った不機嫌そうな元親の顔もはっきり認識できる。暇つぶしにガラス越しにじいっと見つめてみると、彼は少し照れたように視線を泳がせた後、そっと目を伏せた。その一連の動作が愛嬌のある大型犬のようで、なんだかかわいい。外が真っ暗な分、車内を爛爛と照らす蛍光灯がまぶしい。小さないら立ちを覚えつつ規則性があるようで無さそうな心地のいい揺れに身を任せながらあくびをすると、元親に軽くわき腹を小突かれた。
「よく怖い話であるよね。電車で居眠りしてたら実在しない駅に連れていかれて…ってやつ」
「あー」
「今寝たらそんな夢見そう」
「いや寝んなよ」
鋭いツッコミを入れる元親の手を探るようにして取り、視線は窓越しのままに、手袋を外した指先で弄ぶ。四角く切りそろえられた爪。ささくれている親指。第二関節が大きい中指は桜の枝を思わせる。指の腹をそれらの表面に滑らせていると、やがて音も無くぎゅっと絡めとられてしまった。自由を奪われた私の右手は元親のごつごつした掌に収まり、些細な悪戯心と探求心は、羞恥心へと姿を変える。
「…なんで今年は実家に帰らなかったの」
秘儀:照れ隠し。話題を我ながら見事なコントロールで60度くらい変えると、元親は私の大方の想像通り、窓に映る私の顔を見据えたまま「いや、金無ぇし」と面白さの欠片もない返答を寄越した。
「ふうん」
「自分で聞いといてそんな興味無さそうにすんなや」
「あんま興味無いし」
「正直すぎんだろ」
お前さあ。元親がくつくつと喉を鳴らして笑う。この反応はやや意外だった。もっと困ってくれるかと思ったのに。私は元親を困らせるのが好きだけど、肝心の元親はなかなか困ってくれやしない。どうして困ってくれないの。業を煮やしてそう尋ねた時ですら、彼は「知らねえよ」と言ってくつくつ笑った。その屈託のない笑顔と裏表の付けられない性格から察するに、きっと本当に「知らねえ」のだろうけど、やはり少し納得がいかない。しかし、そもそも私がなぜ元親を困らせたいのか。その理由もわからないので、これ以上この話題に関して深く追及するのはやめておこうと思う。この世に起こる大抵のことは、深追いすると碌なことにならない物なのだ。私は知っている。
「年末年始何するの」
「バイト」
「ぶれないね」
「だろ」
「うちにお雑煮食べにくる?」
「あっ行きてえ」
「お父さんもいるけど」
「……じゃあ考える」
「だよね」
通過する駅の明かりが元親の苦い顔を照らし出す。ああこの顔、好きだなあ。なんて、頭に浮かんだ感情を吐き出す代わりにもう一度小さくあくびをすれば、「寝んなよ」と諫める声が飛んできた。ほどなくして、車内にアナウンスが流れる。心地いい時間ももうすぐ終わり。ふたりの目的地はもうすぐそこまで来ていた。
「寝ないよ」
「寝たら置いてくかんな」
「そのときは元親も一緒に寝ればいい」
「馬鹿言ってんじゃねえ」
宇宙人が戯れに地球に空けた大穴みたいな川。踏切の向こうに連なる光線。あやとりの途中みたいな高架線。夢とうつつのちょうど真ん中くらいに立っている私の眼には、全部がきらきらして見える。
「そんで夜明けまで一緒に居よう」
お腹と胸の間らへん。その奥のほうがぎゅうっと狭くなる感覚を覚えながら、こてんと頭を元親の肩に乗っけてみる。鼻先を霞める匂いは秋の終わりの落ち葉に似ている。直に私の体を震わせる、「おい、」というやたら低い声が心地よくて戯れに目を閉じれば、今にもカウントダウンが始まってしまいそうだった。
「初詣、一緒に行こうね」
「行ってやるからここで寝るのは勘弁な」
「わかったよ」
「わかってねえよ。目ぇ開けろ」
ぐりぐりとこめかみのあたりを突く元親の顔は、言葉に反して楽しそうで、私の自惚れを一滴垂らすならば、この上なく幸せそうだった。おい行くぞ。知らず知らずのうちに駅に着いていたらしい。差し出された手に指先を触れさせる。来年はもう少し、元親を困らせずに生きてみよう。ホームに降り立ち、北風に嫌でも目を覚まさせられるまでの最後の数歩を名残惜しみつつ、私はそんな出来もしないことを考えてみるのだった。