今見えている月が綺麗だから、敢えて裏側を見たいとは思わない。多分、それと同じ事。
好きな人がいる。好きになって2年くらい経つ。しかしまだ好きですとは伝えていないから、彼は私の気持ちを知らない。所謂片思いというやつだ。花の中学3年生、好きな人のひとりやふたり居ても可笑しくはない。…いや、これは私の価値観で物を言ってるだけだけど。それに、恋の事でついつい神頼みしてしまうのだって、別に。彼を好きになってからというもの、私は初詣のお願いも、バースデーケーキの蝋燭を吹き消すときにするお願いも、部活の帰りに偶然流れ星を見た時のお願いも、全部全部同じだ。けれどもそれは『彼と付き合えますように』なんていうわかりやすいお願いではなくて、『告白する勇気をください』とかいう可愛らしいお願いでもなくて、
「謙也とこのままの関係を維持できますように」
「……いやいやいや、もうちょい欲張ってもええんちゃうか」
学校の裏にある古い神社の賽銭箱の前で深々と一礼をして顔を上げると、自分の隣で「まーたそれか」と呆れたように笑う白石が目に入る。横目で見て「またそれや」と呟くと、彼は何か言いたげな表情を浮かべたが、結局何も言わず、黙ってずり落ちかけていたラケットバッグを肩に掛け直した。梅雨明け宣言から早一週間。小さな森みたいになっている境内は、もう夕焼け小焼けも鳴り終わったというのに、全力で鳴く蝉の声だけが合唱というより悲鳴のように響いている。額に滲む汗を手の甲で拭っていると、鳥居の向こうから蜃気楼のような人影が湧いたように現れ、「おーい白石、。探したで」と聞き慣れた声に呼びかけられる。50段くらいある階段(前に金ちゃんと来た時に数えた)を一息で駆け上ってきたらしい。弾む息を軽く整えて私と白石の前に仁王立ちする謙也の妙に得意気な笑顔がまぶしくて、私は思わず昨日の夕立のせいでまだ泥が付いているスニーカーの先へと視線を移した。
私の好きな人。名前は忍足謙也。謙也本人は私が彼の事を好きであることは知らないけど、私の友人達は私が彼の事が好きな事を知っているし、時には焼かなくてもいいのにお節介を焼いてくれたりもする。正直ありがた迷惑だと思う。謙也とは同じクラスで、1年のときもそうだった。2年ではクラスが別れたけど、部活が同じだから顔を合わせることは多かった。好きになったきっかけというのは今ではもう忘れてしまった。というか、そもそもそんなきっかけなど無かったのかもしれない。普段そんなことないのに珍しく優しくされたとか、なんかこう心に刺さる事を言われたとか、そういう非常にわかりやすいきっかけは無かった。けど、「なんかいいな」という感覚があった。たったそれだけの違いだと思う。謙也が謙也やから好きになってん。前に白石にそう言った時に「あーなんかわかる気ぃするわ」と返されたが、多分白石のような完璧な人間ですら本質はわかっていない。だって私が謙也の事を好きな気持ちは私にしかわからない筈だから。私から見える景色は私にしか見えないのだ。
「何で俺置いてくねん。白石が鍵当番の時は俺いっっっっつも待っとるやないか」
「謙也の脚力なら先に出ても追いつけると思ったんや」
「アホぬかせ。……んまー結果追いつけたからええけどな」
ふふんと鼻を鳴らして得意気に胸を張る謙也に「ガキか」と言えば、間髪入れずに「うっさいわ」とブリーチのかかった髪の毛と同じようにくしゃくしゃの笑顔を向けられる。そこだけ切り取って手帳に貼っておきたいくらいに愛おしい。そして私がそんな風に思っているだなんて1ミリも思ってないであろう謙也はバシバシと私の背中を叩く。『謙也とこのままの関係を維持できますように』。そう願う私の本質はここにある。普通、人は恋をすると好きな人に触れたいとか、自分だけを見ていて欲しいとか、四六時中自分のことを考えていて欲しいだとか思うらしい。その気持ちもわからなくはないけれど、私はそれらの権利を得られない事よりも、現状を失う事の方を恐れている。
「折角ここまで登って来たんやから謙也もお願いしとき」
「ああ、せやな」
白石に言われるがまま、ズボンのポケットから小銭入れを出してお賽銭を用意する謙也の願い事は決まっている。白石と、今日は居ないけど、他の男子テニス部レギュラー陣とも多分一緒。全国制覇。二礼二拍手一礼やっけ?と白石に問いながら、ぎこちなく礼をする謙也の後ろ姿は、改めて見ると、夏前よりも一回りくらい大きくなったような気がした。
「この俺が神頼みしたんやし、全国大会も安泰やな」
「油断してると足下掬われるで」
「ほんまそれ。あと一歩のとこで涙を呑んだ女テニの分も頑張ってもらわなアカンのですけど」
「じょ、冗談やて」
「ほんまかなー?」
「せや!ほら、この通りやて」
いやどの通りやねん。そうツッコミを入れるより先に伸びてきた謙也の右腕が私、左腕が白石の肩に回り、ぐっと引き寄せられる。私と白石とを強引に抱き寄せてきししと悪戯っぽく笑う謙也を挟み、白石と向き合う形になった私が目を丸くしていると、白石はやれやれと肩を竦める動作をした後、「しゃーない奴やな、ほんまに」と笑った。私はと言えば、暑苦しくも心地の良いこの現状を失うことを、やっぱり恐れていた。
好きな人がいる。好きになって2年くらい経つ。名前は忍足謙也。謙也本人は私が彼の事を好きであることは知らないけど、私の友人達は私が彼の事が好きな事を知っている。私は謙也に触れたいとか、謙也に自分だけを見ていて欲しいとか、四六時中謙也に自分のことを考えていて欲しいだとか、ほんのちょっとだけ思う。けど、謙也は私の事をそんな風に思っては居ない。良き友人だと思っていると、思う。だから、私が今「好きや」と言ったら謙也は困ってしまう。困ってしまって、何も考えられなくなって、もしかすると、最終的に私を拒絶するかもしれない。そうなると、もうこんな風に二度と肩を組んでなど来ないし、「なんでやねん」と溶けたソフトクリームみたいにベタベタなツッコミをしながら背中を叩いて来ることもないし、部活の帰りにそれ一口くれやと言って駄菓子屋で買ったラムネを回し飲みしようと持ち掛けて来たりもしなくなるだろう。だから私は先へ踏み出す事よりも、足踏みをする事を願う。月の表側だけを見ることを望む。
「ほな、そろそろ行こか?」
「男子は明日も朝から?」
「せや。謙也、遅刻するんやないで」
「誰に向かって言ってんねやそれ」
「階段下まで競争な。負けた奴が下の自販機でジュース奢り」
「よっしゃ!」
「あっ、ちょ、待てや!白石!」
よーいどんの合図も無く走り始めた背中に降りかかる喚き声。まだ微かに残る左肩の体温。それに被さるバッグの重み。日焼けした腕。スニーカー越しに触れる石段のぼこぼこした表面。それらが今の私のすべて。宙に浮く心を抱え階段を駆け下りながら、偶にはジュースだけじゃなくて、コンビニでアイスも買って帰ることを提案してみようと考えていた。