in “full” bloom


いつだったか彼が語ってくれた、彼の生まれ育った国にあるバカンスという制度を、私は未だに心の底から理解出来ないでいる。
旅行のためではなくあくまでも休息のため。国中の働く人々が数週間に渡り、『空っぽ』という語源の通り、頭を空にして海沿いの町でマリンスポーツだったり田舎の方で静かに読書だったり森の中で賑やかにキャンプだったりをしながら思い思いに過ごすという。
大きな企業に勤める会社員だろうがレストランのウェイターだろうが医者だろうが教師だろうが俳優だろうが、それこそ彼のように人の命を守る職に就いている人だろうが関係無く、皆一様に。
それはもう文字通りの死活問題にも発展しないのだろうかという疑問も浮かぶが、やんわり指摘すると「いや、何とかなってる」と返ってきた。(ほんとの所はどうなのかは何だか知るのが怖くてそれ以上踏み込めなかったのだけれど。)
自分が生まれてから今に至るまでずっと身を預けているシュテルンビルトという絵に描いたような多民族社会に於いて国民性という言葉がどれほどの威力を発揮するのかは不明だが、それを抜きにしても、そもそもバカンスとやらは私の気質とは合わない気がしてならない。
そう言うと、正真正銘のビジターの癖して“ここは俺の国”と言わんばかりの横柄な態度で砂浜に寝そべり肌を太陽に晒す、バカンスの国から来た男――ライアン・ゴールドスミスは私を見下すかのように「ふふん」と鼻先だけで笑うのだった。
ちゃん、考えすぎだっつの。頭空っぽにして寝て過ごす。そんだけなのに」
「だからそれが出来ないって言ってんの。私にとっては異常事態だよ」
あとあんたは休暇を取るにしてももっと色々考えているべきなんじゃないの、ほら、職業的に。体裁とか気になんないのか。多分気にならないからそんな事が言えるんだろうけども。生きるべき場所が違うんだろうね、そもそも。大袈裟かもしんないけど。
そう言うと、ライアンは何が気に入らないのか、ちょっと不機嫌そうな顔をして上半身を起こし、目の前に広がる砂浜、波打ち際、輝かしい白い波、それから地平線の向こうへと、順番になぞるように視線を送った。
「いーや、俺に言わせりゃ、たった3日しか連休取らせて貰えない今のこの状況の方が異常。はーーーーまた移籍すっかなー。やっぱ世の中金だけど、そもそも金を使う時間が無いと意味ねぇよな。な?」
「…いや、だからそこに対して私に同意を求められても」
困るの分かってて言ってるでしょ、それ。
小言に近い独り言を言いながら、数年前にフリーマーケットで買って暫く忘れ去られていたバスケットからたまごサンドを取り出す。ここは夏の入り口。街のはずれのビーチ。まだまだ夏本番に向けて予行練習の真っ最中といった具合のぬるい空気の中で齧るそれは、用心して多めに入れた保冷材のおかげで想像以上にひんやりしていた。

ライアンがバカンスなんて言葉を忘れるほどに日々目まぐるしく情勢の変わるこの街を去ってから季節がぐるっと一回りした。
1クールに一度程度する電話と、忙しい日々の中でお互いに存在を忘れるか忘れないかくらいの絶妙な頻度で寄越される他愛もない近況報告メールによって知らされている通り、彼は海の向こうでも宜しくやっているようである。
先程のように、いわゆるワークライフバランスについてのぼやきを聞かされることもままあるが、なんやかんやで充実していて楽しそうなのは声色や表情から伝わってくる。
自分の“親しい人”が活き活きとしていること。それはこの上なく喜ばしい事である。
しかし不思議な事に、彼が楽しそうにしていればしている程、私の心の奥がきゅうっと締め付けられるような感覚を覚えるのだった。いや、不思議というか、実際理由は分かっているのだが、それはまだ誰にも言えないでいる。ここだけの話。
「たまご?」
視線を海の向こうから私の手元へ移したライアンは、弾んだ声色で尋ねる。
「たまご。と、ピクルス」
「ピク………?マジか、何で入れた?」
「……だって、冷蔵庫にあったから」
思いっきり顔を顰めながら投げかけられる彼の問いに、急に恥ずかしくなってやや尻すぼまりな言い方になってしまったのを悟られないようもう一口齧ろうとすると、横からにゅうっと白い腕が伸びてきて、あれよと言う間に羞恥心の原因は掻っ攫われてしまった。
「あ」
「意外とイケんじゃん。今度作ってみよ」
むぐむぐ言いながら私お手製たまごサンド(賞味期限ギリギリのピクルス入り)を頬張るライアンに出来る限りの鋭利な視線を送れば、それがなんだと言わんばかりの意地の悪そうなにやけ顔が返される。
まるで寄せては返す波のよう。それがすっかり型に嵌った、私達の日常。
否、今はすっかり、日常と呼ぶには些か貴重すぎる物になってしまったのだが。

「あーあ。俺の短いバカンスが終わっちゃう」

誰に許可を取るでもなく、勝手に切なくなってる私に構わず彼は欠伸を噛み殺しながら言う。
「明日の今頃にはあっちに居んのか」。そして、何気なく発せられたそのつぶやきに、急に知らない場所に置き去りにされたような寂しさを胸に抱いた私は、胡坐をかいて再びぼんやりと霞む地平線を眺めることに集中し始めた彼を呼び止めるように、縋るように、「ライアン、」と声を発する。
ええい、何がバカンスだ、何が空っぽだ。満ちている事が当たり前なのに、どうして今更変えられようか!
そんな甘いとも苦いとも言い難い気持ちを口の中いっぱいに広げながら。
1年前に言えなかったあの5文字の言葉は、やっぱり今日も言えそうにないけれど、
「んー?」
「……」
「何?」
「次は、いつ帰ってくるの」
帰って、というか、戻って、というか。
ざらざらした波の音に乗っかるように発せられた私の問い。抱きかかえていた足を崩し、波打ち際に落ちている瓶の欠片に負けじと輝く瞳を覗けば、それは少し早い黄昏時が訪れたように優しく細められるのだった。

「…………なーいしょ」

なんつって。
お道化るように、誤魔化すように、逃げるように、水中に深く潜るように。そんな風に聞こえる彼の声。波の音より聞いていたい声。途切れることなく、繰り返し聞いていたい声。
それに返す言葉は、彼が今居るべき場所である海の向こうにならあるのだろうか。行けば、見つけられるのだろうか。様々な物が流れ着く、この浜辺には無いのだろうか。何でも手に入る、この街には。私の、隣には。
彼が隣に居る今ですらフル回転する頭の中は、やはりもう暫くは空っぽになんて出来そうになかった。