「私は生まれる時代を間違えたのかもしれない」
それは凡そこの場には相応しくない、何か壮大な意図や意志を含んだ言葉だったと思う。
その割には小さな声で呟かれたので、聞き間違いかもしれないと思いながらも、半兵衛は顔を上げた。
開放感のあるオフィスは殆どの明りが落とされ薄暗い。それに加えてここはパーティションで区切られている半個室のような造りになっているから、猶更だ。観葉植物やコピー機が白い壁に影を作り、得体のしれない怪物のように見える。
他の社員たちは定時を過ぎてから自分の元へやってきて挨拶をしてはひとり、またひとりと去っていき、気が付けば残っているのは半兵衛とのふたりだけになっていた。
半兵衛は先程から絶えず睨んでいるモニター、デスクの左端にちんまりと置かれたサボテン、それから斜め向かいにある来客用のソファに腰掛けて退屈そうに青いファイルを捲っている白い指の順に視線を送る。するとやがて不機嫌そうに細められた
のそれと交わった。
「…ねえ、話聞いてる?」
「ああ、ごめん。聞き間違いかと思ってね」
やはり聞き間違いではなかったのか。そうだとは思っていたけれど。半兵衛がガス抜きをするように「ふう」と短く息を吐くのと視界の隅で「もう」とむくれるを捉えるのは、ほぼ同時のことだった。
勉強に於いても仕事に於いても、“解る事”が当たり前。そんな半兵衛にとってはとりわけイレギュラーな存在である。偶々実家が隣同士であったこと。偶々自分が生まれたのが彼女より少しだけ早かった事。そして偶々母親同士の仲が良かった事。その3つの偶然が上手い具合に重なり合い、彼女との付き合いは幼少の頃にまで遡る。あの頃は本当にふたりとも可愛かったのよねえ。ほんとほんと。今でも気が向いた時にふらっと実家に帰ってみれば、居間で紅茶を啜りながらそんな風に昔話をする母親たちの姿が見られる。その光景を見るとは都度「もう、やめてよね」と、丁度今のように口先をとがらせ不機嫌そうな顔をするのだが、半兵衛にとっては呆れるのにも羞恥から来る怒りを抱くのにも取るに足りない事だった。過去を懐かしむ目的で振り返りたい者には好きなだけ振り返らせておけばいい。自分自身はもっと見るべきことや考慮すべきことがある。そう、目の前の彼女に言えば「またそんなつれないこと言って」と窘められるのだろうが。
「…で、何だっけ。お腹が空いたならここに左近君が置いて行ったハッピーターンが」
言って、半兵衛は手前の引き出しを開け、ポストイット、ルーズリーフ、ステープラー、長年愛用している万年筆といった文房具の上に乗っかっているお馴染みのオレンジ色のハッピーなパッケージを取り出す。
半兵衛自身に間食をする習慣は無いが、昼間部下の左近が業務上のミスに対し「これで勘弁して下さい~」と言って差し出してきたのだ。当然半兵衛がそれで許すはずは無かったが、数十分に渡る説教を終えた後、机の上に置き去りにされたそれに気づいた半兵衛はどうする事も出来ず、とりあえず仕事の邪魔にならない場所へと追いやり今に至るのだった。
「分かっててスルーするの、ほんとどうかと思うよ」
「食べないの?」
「食べるけども」
「食べるんだ」
お腹空いたんだもん、誰かさんがこんな時間まで付き合わせるから。
はファイルをバタンと音を立てて閉じて立ち上がり、別に付き合わせたつもりはなく、残ると言い出したのはの方では無かったかと疑問を抱く半兵衛から厚みのある袋を受け取ると、そのまま彼女のこの部屋での定位置になっているソファには戻らず、彼の机の脇に置いてあるサイドワゴンにちょこんと腰掛けた。
「やめて、行儀の悪い」
「ちょっとだけだよー」
がさごそと妙に雑に聞こえる音を立てて袋を開けながら、はにっと唇の端を持ち上げる。妙に楽しそうなのが鼻につく。ちょっとってどのくらいだ。大体これは腰掛ける物ではない。あと尻の下にある僕の手帳の事は無視か。言ってやりたい事は次から次へと浮かんできたが、何故か今はどれも投げかける気にならず、結局深いため息だけが出てきたのはここの所残業続きでさすがに疲労が溜まっているからだろうか。昼間にした長い説教のせいだろうか。半兵衛は、暫く「ハッピーターンの包みって外国のキャンディみたいでかわいいよね」と言いながらそれに齧りつくに「汚さないでよ」と冷たい視線を送っていたが、彼女がそれに気づくわけもなく――無視をしているだけの可能性も無きにしも非ず――すぐに諦めて自分が今一番向き合うべきである作成途中の書類に視線を移した。こちらに関しては誰かの失態のせいで時間は掛かったものの万事順調なのが、せめてもの救いであると言えた。
大抵の問題は、時間が解決してくれる。裏を返せば、時間さえあれば大抵の問題は解決できてしまう。
しかし、それはあくまでも仕事に関してのみ言える事。時間を掛ける事と理解を得る事が必ずしもイコールではないと半兵衛に教えてくれたのは、学校での勉強でも仕事でも無く、もしかするとだったのかもしれない。
20年以上の付き合いになる幼馴染ならば何でも知っているだろうという俗世間の認識は間違いだらけであり、実際半兵衛がについて知っている事と言えば、全体を100としたうちの10にも満たないのではないかとさえ思える。
幼稚園の時の組の名前、小学校の時の遠足で訪れた場所(もっとも、学年は違ったので一緒に行った事は無いのだが)、中学の時の部活と顧問の名前、高校に入ってから彼女が最初に付き合った男の名前。半兵衛にとっては九九や元素記号と同等にすらすら言えるについての基礎知識は膨大な量であるが、人間性といった面ではどうだろうか。疑問が生まれる。
例えば、が小学校を卒業する頃まで毎日抱いて寝ていたキリンのぬいぐるみ。の家に行くと必ず目についていたそれは、いつの間にか彼女のベッドの上から姿を消しており、代わりにそこにはつまらない同級生の影響で読み始めたであろうファッション雑誌が乱雑に置かれるようになっていた。それとなく奴の所在を尋ねると、「あー、お母さんの知り合いの子?あれ、お父さんだっけ?まあいいや、その子にあげちゃった」と、懐かしむでも惜しむでもなく、「それが何か?」といったテンションで返ってきた時は大層驚いた。自分が来る者拒まず、去る者追わずの精神の下付き合ってきた、大して好きでも嫌いでもない女性から貰ったプレゼントや手紙の数々を後ろめたさも罪悪感も抱く事無く捨てるのとは訳が違う。幼少期、失くしたから一緒に探して欲しいと目に一杯涙を浮かべながら懇願してきた程大切にしていた物を、彼女はこうも簡単に手放せるのか。彼女の全てと言っても過言では無さそうだった物を。否、そう思っていたのは、実は半兵衛だけだったのかもしれない。解らない。それに関してどうこう口出し出来る立場では無いという事が、半兵衛の頭を更に混乱させた。(に言わせれば、「女をとっかえひっかえしてる半兵衛の方がわかんない」らしいが、それについては今は言及しないでおく。)
それ以外にも、「家出したくなったから半兵衛の部屋に居させて」と言ってやって来たものの、その日の夕方にはきちんと帰宅した事や、甘口の卵焼きを好む事。「今年は沢山本を読もうと思う」と毎年元日になると言いながらも三が日の間で飽きる事。についての解らない事を挙げていけばキリが無い。昨年の冬、紆余曲折ありながらも結局互いの所に落ち着いた結果、共に暮らすようになってからは一緒に居る時間がそれまで以上に増えた分、更に解らない事に出会う頻度は多くなったように思う。
だから“生まれる時代を間違えた”等と意味深げな事を呟いておきながらハッピーターンを次々に口の中へ放り込むを「またか」と呆れながらも「まただ」と苦悩するのだった。
「生まれる時代を間違えたって、」
「へえ?」
4つ目か5つ目のハッピーターンを咥えながら、は素っ頓狂な声を出す。
伸び掛けた前髪が少ない明りに照らされ、輝きを放っている。驚いたように丸く開かれたふたつの瞳。それに幼さと共に妖艶さを感じるのは所謂『惚れた弱み』というやつなのだろうか。これもまた、半兵衛にとって解らないでいる事のうちの一つだ。
「いや、だから、さっきの話」
「んー?ああ、」
そこまで言われて漸く思い出したようで、は納得したように相槌を打つ。
その話題はもうどうでもいい。一瞬そんな風にも聞こえたが、くしゃくしゃになった菓子の包みを傍らにある屑籠に纏めて捨てると、まるでこれから全国民に向けた演説をしますとでも言うように律義にも半兵衛の方に体を向け直し、口を開いた。
「ほら、私、資料纏めるの苦手だし、大人しく座ってるより動き回ってた方が楽だし。…左近程じゃないけど。家事も相変わらず上達しないし。半兵衛に怒られてばっかだし。だったらなんかこう、いっそのこと戦場で駆け回る武士とかに生まれて来るべきだったんじゃないかなって」
そう思ったの。なんとなくね。そんだけ。
やや歯切れは悪かったが、言いたい事を全て言いきった様子で、は顔に掛かる髪を耳に掛け直した。
ふたりを照らす数少ない明りのうちのひとつを背負ったは、いくら人から貰ったハッピーターンを遠慮なく食べていようとも、本来座るべきではない場所に座っていようとも、輪郭がぼやけて何だか儚く映る。それに気付いた半兵衛は急に柄にもなく気恥ずかしくなり、壁に掛かってるスチールのフレームの時計を見た。21時23分。そろそろ切り上げて帰らないと、明日の業務に響くだろう。当初予定していたよりも大分長居してしまっていた。
「…つまり、は僕が頼んだ資料をまとめながら、そんな他所事を考えていた、と」
「ちっ、ちが…!いや、違わないか…でも違うってば」
痛い所を突かれたらしいは慌てた様子で視線を泳がせる。その何気ない所作からも、懐かしさや安心感を得られる。それは付き合いが長い者の特権だろうと、優越感のような物に浸る半兵衛は心底楽しそうである。
額に薄っすら汗をかき狼狽える彼女を見てひとしきり笑った後、「まあ、」と切り出した半兵衛に、は縋るような眼差しを送った。
「確かに君なら時代も身分も性別も関係無く、生まれた場所でそれなりに楽しくやっていけそうだね」
愛用のラップトップを閉じ、スリーブケースを鞄から取り出しながら言う半兵衛の言葉には嘘も偽りも妙な忖度も無い。そんなものが互いに通じない事はとっくの昔から周知している。
天真爛漫で明朗快活。良くも悪くも人懐っこいは、本当にどの時代にでも順応してしまいそうだと思った。改めて言うのは少し恥ずかしいが、そういう所に惹かれた結果、今こうして共に生きてるのだから。それなら自分はどうだろう。彼女の事を考えていた筈なのに、気づけば自分の事も同時に考えてしまう。他の人生。今の自分ではない生き方。馬鹿馬鹿しいと思いながらもつい真面目に考える。彼女と共に生きるに価するかどうか。この時点で、やはり自分はかなり彼女に嵌っているのだ。囚われてしまっているのだ。“解らない事”だけではなく、彼女そのもの。という存在に。
「………半兵衛に言われると何か腹立つ」
「本心だよ」
「だったら目を見て言って貰えますかね」
大事にそうに抱えていたハッピーターンの袋を置き、半兵衛の両頬を掌で包みながら顔を怒りのままに歪めるを、半兵衛は負けじと「愉快」と言わんばかりの表情で見つめる。
静かな睨めっこの後、結局折れたのはの方だった。
が半兵衛に教えてくれた事。時間を掛ける事と理解を得る事が必ずしもイコールではないという事。
それから、解らない事が狂おしい程までに愛おしいという事。
それは、自分だけが知っていれば良い事。
理解できない事を憂いて焦る事は、きっとない。時間ならある。今の半兵衛にとっては、それさえ知っていれば充分だと思った。
「けど、やっぱりそれは遠慮願いたいかな」
帰り支度を始めた半兵衛を見て「やっと帰れるー」と鼻歌交じりに自分の荷物を纏めるに言う。
結局彼女に頼んでいた仕事はやりかけのままローテーブルの上に散らばっているが、まあ良いだろう。
明日、いつも始業開始時間の1時間近く前に出勤する部下がこの有様を見て「何だこれは」と憤慨する姿が目に浮かぶが、それはそれとして。
「えっ、なんで?」
ぴくりと小さな肩を震わせ小首を傾げ、訝し気に尋ねるに歩み寄り、彼女の髪に優しく触れる半兵衛の顔は、薄暗いオフィスでもはっきりと分かるほど楽しそうだった。
「君が隣に居ない人生は、僕にとっては退屈過ぎて敵わないと思うから」
君もそう思うだろう?
そう言って、の髪に伸ばしていた指先で彼女の唇を一撫でする。きっと今頃、彼女の予想の範疇を超えた半兵衛の言葉を頭の中で一生懸命処理しているのだろう。目をビー玉のように丸くしたまま硬直している彼女のそれは、さっきまで夢中になっていたお菓子のせいか、空調のせいか。ややかさついているのに気づいて、半兵衛は顔を更に綻ばせた。
「ほら、早くしないと電気消すよ」
「……ま、待ってよう」
っていうか車の鍵持った?!下まで降りてから私に取りに来させるのやめてよね!!ほら、こないだだって、
両頬をしっかりと紅く染めながら、半兵衛の後に続くの声だけが大きく響く。
そう。きっと彼が嵌っているように、もまた然りなのである。
その事実を知るのは、今は一部始終を見ていた彼の机の上のサボテンくらいであろう。