ここ最近、忙しかったの。仕事から帰ってもへとへとで、ご飯を作って食べるなんてこと、暫くしてないし。まあそれは元からなんだけど。あと、シャワーを浴びてそのまま髪も乾かさずに寝てしまう事だってあるし。でも昨日はちゃんと乾かしてから寝たよ。えらいでしょ。ただ、アラームを掛ける時間を間違えちゃった。うっかりしてたなあ、ホント。結局職場に着いたの、始業時間の1分前とかだよ。心臓止まるかと思った。だから朝、天気予報なんて見る時間無かったんだよ。そんな時間があるなら1秒でも早く職場に着く方法を考えるでしょ?まあ、バニーちゃんは寝坊なんてしたこと無いんだろうけどさ。でもちょっと想像してみてよ。どう?
「言い訳はそんな所ですか」
「そんな所です」
「素直ですね」
「それ、褒めて」
「ませんよ」
「だよねー」
知ってたよ。言って、は力なく笑う。そして不機嫌そうな、そうでもないような、いつも通りなような表情を浮かべてハンドルを握るバーナビーの横顔から前方へと視線を移した。濡れた道路に反射するライトが眩しく、思わず顔を顰める。昼間の晴天が嘘のように降り注ぐ雨は容赦なくフロントガラスを叩き続けていた。
「バニーちゃんが居てくれてよかった」
「僕が今日、偶々近くで仕事をしていなければどうしたんですか」
「だから、バニーちゃんが居てくれてよかったって言ってんの」
「……そうですか」
ふ、と息が漏れるような笑みを零すバーナビーの横顔は雨やライトといった装飾品が無くとも十二分に美しい。まるでこの世の物とは思えない程に。そんなことあるはずが無いのに。あってはならないのに。前の車が出すウインカーをぼんやりと眺めながら、はそんなことを考える。
(ほんと、どうするんだろうね)
もしも、いわゆる平行世界と呼ばれるものがあったとしたら、バーナビーと出会わなかった場合の自分は一体今頃どうしているのだろう。は時たま考える。もしも、今日のように職場を出ようとした瞬間、急に降り出した雨を前にした場合、果たして気負わず(と言ったらバーナビーはまた嫌な顔をするのかもしれないが)助けを求められる相手が自分には居ただろうか。『傘、忘れちゃった』と、簡素なメッセージを送っただけで全てを察し、『30分、待てますか?』と返してくれる。そんな相手が。居たかもしれないし、居ないかもしれない。答えはわからない。今日に限った話ではない。いつだってそうだった。色んな“もしも”が頭に浮かんでくるものの、バーナビーの居ない世界の事を考えようとすると、ぴたりと思考が停止する。まるで、行き止まりの標識が出ているかのように、にはそれ以上想像する事が出来なかった。しかし、きっとそれこそが答えなのだろうとは思う。自分は出会ってしまった以上、バーナビーの居ない世界では生きられない。それこそが、全ての疑問に対する答えなのだと。
だから、
「バニーちゃんが居てくれてよかった」
もう一度。今度は自分に言い聞かせるようにそう呟き窓の外を見る。今朝、自分が額に浮かぶ汗を拭いながら走った通勤路。数えきれないほど通った道だというのに、妙に煌めいて見えるのは雨のせいか、バーナビーが隣に居るせいか。どちらだろう。
「あんまり言い過ぎると嘘っぽく聞こえるので辞めた方がいいですよ、それ」
「嘘に聞こえる?」
「いいえ」
「ふふっ」
緩やかにかけられるブレーキと共に堪らず漏れたの笑い声に、やがてもうひとつの声が重なる。恐らく、どちらも正解なのだ。彼のいる世界は今日も美しく、愛おしいから。心地の良い音色に包まれながら、はそう、静かに確信する。