不自然イノセント


その日、イワンはいつも通り会社に顔を出して、いつも通りそんなに複雑ではない事務仕事を片付けて、いつも通り少し走ってから家に帰るつもりだった。しかし、一日の間に予想出来ない事が幾度も起こるこの街に住んでいなくとも『想定外の出来事』に遭遇する事は、人が生きていく上で避けられない。実際今現在イワンの目の前に広がるのは、いつも通り本来きっちりとした印象を与える制服を自己流に着崩して、いつも通りの交番のデスクではなく、アポロンメディアの近くに昔からあるパン屋のテラス席に座り、分厚いサンドイッチに豪快に齧りつく友人、の居る風景だった。
「美味しい?」
「おいひい!」
ほうじ茶が入った紙のカップで指先を温めるのにも飽きてイワンが尋ねると、照れたように口元を押さえながらが返す。その姿は(失礼にあたるという事は承知の上で)イワンが最初に彼女と会った時に抱いた“幼い”という印象を思い出させるものがあり、「よかったね」と返しながら手持無沙汰にぺこぺこと湯気立つ紙コップを鳴らした。

会社を出てランニングコースを何処にしようか悩みつつ、意識的にか無意識的にかアポロン方面に足を向けている途中、偶々これから遅めの昼休憩に向かうというにばったり出くわし、時間があるならば一緒にどうかと誘いつつ、『寝坊して朝ごはん抜いた日に限って忙しくてさー、一生ご飯食べられないかと思ったよー』と大袈裟に言いへらりと笑った彼女の横顔を思い出しながら、住み慣れた筈の街なのに何処か居心地が悪いような、落ち着かないような気がするのは何故だろうとイワンは考える。しかし、わざと遠回りして導き出そうとした明確な答えを掲げるより先に、の方が「そういやイワンと交番以外で会うのって初めてだね」と言った事で、イワンの中にあった居心地の悪さが見事“照れ”へと変化を遂げたのだった。
「そ、そうだね」
「ね。なんか妙な感じ」
「妙……?」
「うそ。不思議な感じ?」
「それ、あんま変わってないような……」
「悪い意味じゃないよ」
そう言って笑うからは言葉通り悪意は微塵も感じられず、ただただ楽し気な雰囲気を纏っていたので、気を抜けば悪い方へと物事を考えがちなイワンも今回ばかりは素直に納得することにした。不思議、だけど悪くはない。そんなの気持ちに同意をしたというのも大きな要因だと言えた。
「偶にはこういうのも良いね」
余程空腹だったようで、気が付けばぺろりとサンドイッチを平らげ、ミルクの沢山入ったコーヒーを飲みながら言うにイワンが「うん」と短く返す。通りを往く人の会話。近くの公園から漂う緑の匂い。頭上に広がる高い空。当たり前に在るそれらはいつもふたりが何気ない会話を交わす場所とは異なり、やはり少し不思議で、でも悪くはない。だから、左腕にした赤いベルトの腕時計をチラリと見て「あーもう戻らなきゃ」と溜息を吐くの姿にいつも以上の寂しさを抱いてしまう。
「付き合ってくれてありがとね」
「いいよ、仕事終わって帰る途中だったし」
「楽しかったー」
「うん、僕も」
「ほんと?」
「ほんと」
「……じゃあ、」

今度は休みの日に出かけよっか。

そうの唇から紡がれた瞬間、イワンは雷で撃たれたような衝撃を受けた後、紙コップに振れる指先だけでなく頭の先から足先まで一気に春先のような暖かさで満たされるのを感じた。じんじんと痺れて震える脳をフル回転させながら、やっとの思いで「え、あ、うん」というこの上なく情けない声を絞り出すと、は「約束ね」と念を押すように微笑んだ。
少し不思議で悪くない事が、当たり前で最高の物に成り得る日は果たして訪れるのかどうか。それを知る者は、当人達を含め、このオレンジ色に微かに染まり始めた空の下にはまだ居ない。