「雨が嫌いなんだって」
昼過ぎから降り始めた雨音が強くなったのとほぼ同じ頃だった。ローテーブルに頬杖をつき、視線を本来向けるべきである広げられた教科書やノートではなく、窓の外に向けるは言う。休み休み動かされていたのそれとは対照的に、迷いなくシャーペンをノートの上で滑らせていた半兵衛は手を止め、ゆっくり顔を上げた。
「……今日中にこの課題全部終わらせる気、あるの?」
「あるよおー。ちょっと休憩」
「課題を終える前に夏休みが終わる」
「恐ろしい事言わないでよ!」
まるであと数時間後に世界が滅びると告げられたかのように、絶望感の滲む表情を浮かべながら悲鳴にならない悲鳴を上げる幼馴染を見て、半兵衛は愉快そうに声を上げて嗤う。
「宿題、一緒にやろ。ってか教えて」と押しかけて来て、良いとも嫌だとも、もう既に終わっているとも言う前に、勝手に定位置としている場所へ、同様に勝手に“自分用”と宣うクッションを敷き、「数学の課題多すぎなんだよ。どこにも遊びに行かせないつもりだよあの先生」とぶつぶつ文句を言いながら、向かいの自宅から持ってきたノートと筆記用具を用意する。そんな光景は、半兵衛にとってある意味夏の風物詩と言えるほど見慣れた物だった。(もっとも、別に夏に限った話ではなく、物心ついた頃から数えきれない程、こうして課題を携えて押しかけてきているのだが)
しかし、ころころと変わるの表情や時々はっとさせられる事もあるお喋りは、何年関わっていても飽きる事が無い。それは、夏は何度も巡って来るのに飽きる事が無い。それと同等の事だと半兵衛は思っている。
「で、誰が?」
「え?」
「雨が嫌いって」
「あー。石田くんが。前に喋ったんだよね、ちょっとだけ」
雨の音聞いてたら、なんか思い出しちゃった。まだまだ休憩は続くらしい。右手に握られた水色のシャーペンを揺らし、へらりとは笑った。それと同時に、彼女の口から紡がれた“石田くん”という言葉に、珍しい事もあるものだと内心で眉をひそめながら半兵衛は「そうかい」と短く返す。ノートの真ん中の窪みにシャーペンを置き、傍らに置いた麦茶を飲む。グラスの表面を伝う水滴は、窓ガラスを打つ雨のようにも見えると半兵衛は思った。
が言う“石田くん”とは、半兵衛の一つ下の学年、即ちと同学年の後輩である石田三成のことだ。しかし、同級生と言えどもクラスも所属するコミュニティも異なるよりも、生徒会という同じ組織に属する半兵衛の方が彼と関わる機会は圧倒的に多く、彼の事をよく理解している。いつだったか、に雑務を手伝わせた時に偶然居合わせた彼を紹介をした記憶はあるが、それ以来の口から石田三成の名前が飛び出す事は無かった。故に、話の内容どうこうではなく、単純にの方から彼の話題を振ってきた事に対して驚いたのだ。そして、驚いたのと同時に、季節を一つ巻き戻したかのような心地の良い暖かさと、二つ進めたような冷たさが半兵衛の心の奥底に広がる。その正体が何なのかは、今の半兵衛にも理解出来ないことだった。まだ理解すべき時ではない。そんな風にも感じられた。
「『なんで?』って聞こうと思ったんだけど、なんか聞けなかったんだよね。あと、聞いても答えて貰えるかわかんなかったし」
「それもそうだね」
「……そこは嘘でも否定してくれても良いんじゃない?『そんなことないよ』って」
「言った所で虚しくなるだけだろう。僕なりの優しさだよ」
「ひどい」
「よく言われるよ」
主に君からね。薄く笑い、半兵衛は再びシャーペンを握る。それを見て、長い溜息をひとつ吐いた後、事実と迫りくる夏の終わりに対して漸く観念したかのように渋々もそれに倣った。
「いつか、教えてくれるかな。雨が嫌いな理由」
雨音と紙面を滑る音。乾いた二つの音に溶けるような声で呟くに、半兵衛は「……ああ」と相槌を打つ。希望だとか、願いだとか。ほんの少しの不安だとか、寂しさだとか。あらゆる種類の感情を乗せて。が理由を知る時と、半兵衛がその感情をかけがえのない物だと思う時はほぼ同じ時期であると言う事を知る者は、未だ居ない。