今この瞬間は果たして冬なのだろうか。春なのだろうか。雪が降れば『春の雪』だと謳われるが、春を象徴する薄紅色の花の季節にはまだ早い。は毎年この時期になると決まって考えるが、答えに辿り着く前に飽きてしまうので自分の中で「こっちだ」と結論を出した事は無いし、別に出なくても困ったことは無い。ただ、そんな暇つぶしと呼ぶには壮大な疑問を浮かべる事で様々な気持ちを紛らわしているのだった。
南校舎の4階とは、にとっては生徒会室の事を指す言葉に等しい。自身は執行部に所属はしていないのに、何かと理由を付けては幼馴染の半兵衛に雑務を手伝わされた部屋。美術室やら視聴覚室やら他にも教室は幾つかあるものの、2年間の高校生活の中でそこ以外に足を踏み入れた事は無かったし、きっと残りの1年も同様だと思った。しかしその南校舎の4階も昨年の秋以降は(喜ぶべきことなのだろうが)すっかり疎遠になってしまった為、久々に来ると落ち着かない。それは会議用テーブルを挟んだ向かい側で、退屈そうに文庫本を読んでいる、半年前に副会長の任期を終えた半兵衛も一緒なのだろうかとは思うがそんな様子は一切無く、いつもと違う点を強いて挙げるとするならば、彼の左胸に付いている『卒業おめでとう』と書かれた赤いリボンくらいだった。
校門からも教室からも遠いから、ここに居ると別れを惜しむ他の生徒達の声は全く聞こえない。ただ、時々半兵衛が捲るページの乾いた音だけがの鼓膜を震わせた。
こうしていると、午前中に執り行われた盛大な式は夢だったのではないかとさえ思えてくる。式だけでなく、朝家を出る時に「もっと景気の良い顔しなさい、最後なんだから」と言って自分の母親に無理矢理半兵衛と記念写真を撮らされた事から、そんな彼と最後くらい一緒に帰っとくかと思って教室を覗きに行ったら、「みんなが下校してから帰るよ。何処かで時間を潰して。“色々と”面倒だからね」と、背中に絶え間なく刺さる女子生徒の熱い視線にうんざりした表情を浮かべていたあの瞬間まで、全部。
そんな事を考えながら視線を窓の外に移すと、澄んだ空の隅に消えかかった飛行機雲を見つける。跡を残した張本人の姿はもう何処にも無い。置いてけぼりにされた白線に、は明日からの自分を重ねる。今までの17年余りの人生で味わう、3度目の感覚だった。さみしいな。がぽつり呟くと半兵衛は眼鏡のレンズの向こうで目を細め、「ほんとに思ってる?」と笑った。
「思ってる思ってる。私は毎回思ってるよ」
少しムッとしながら答える。半兵衛はまだにやけていた。
「毎回?」
「半兵衛が小学校を卒業した時も、中学の時だって」
「ああ。それはどうも」
一転、妙に真面目腐った顔で礼を言われる。それは一体何に対してのお礼なのだろう。素直に彼の一学年下に生まれたという今までもこれからもどうしたって覆す事の出来ないハンデを背負って生きているが故に抱くの寂しさへの礼だと捉えるべきなのか、はたまたの考えが到底及ばない場所にある事か。しかし、にとっては今はどうでも良かった。それは今が冬なのか春なのかという問題と同じくらい。或いは、飛行機雲を作った主の行先くらい。それを知ったところで何かが変わるわけではないと、過去2回の経験から学んでいたから。
「半兵衛はさみしいって思う事、あるの?」
再び訪れた沈黙の中、乾いた音が5度響いた後、は口を開く。気づかぬうちに傾いて金色じみてきた陽の光がふたりを包む。あわよくばと思う女の子達も、もう行方を眩ませた彼を諦めて帰った頃ではなかろうか。お腹空いたしそろそろ帰ろうよ。そう提案する前に、今日が終わってしまう前に、同じコミュニティに所属している間に、は聞いておきたかった事を問う。今も、前の時も、その前の時も彼は一様に飄々としていた。別れの季節に限らず、常にだが。そんな様子を見て、「心が無い」と彼の事を揶揄する者も居る。しかし、それは違う事をは知っている。面白ければ笑顔を見せ、納得いかない事があると顔を顰め、哀しい時は哀しさを表に出さぬようにしてひっそり嘆く。そんな姿を近くで見てきたから。しかし、そんな中でも知らない事はまだまだある。そのひとつが、置いて行く側の心理だった。自分が一生経験できない立場にある者の気持ち。『置いて行く』という意識が彼の中にあるか、また、寂しいと思っているかどうかはまた別の話ではあるが、それでも一度確かめておきたかった。立場は違えど、自分と同じ気持ちになる事はあるのか、無いのか。彼の口から、聞いておきたかった。
「あるよ」
「うそ」
「聞いておいて失礼な。僕だって人の子だからね」
「どんな時に思うの?」
「うーん、それは内緒」
さて、そろそろ帰ろうか。文庫本を鞄に入れ、半兵衛はゆっくり立ち上がる。
流れるような所作の中、には半兵衛の宝石みたいな瞳が揺れているように見えたが、指摘する事無く、心の奥にそっとしまっておく事に決めた。それでお相子だと思う事にした。そうすれば、少しでも対等な立場になれるような気がした。そうしないと、対等になれないとも思った。
恐らく二人とも、もう2度と足を踏み入れる事が無いであろう部屋のドアをくぐった後。半兵衛はの方を振り返り、ふと足を止める。
「どうしたの?」
「どうもしない」
問い掛けに短く答えて、半兵衛はじわりと笑った。それは花が咲くような、或いは雪が溶けるような笑顔だとは思った。