たりないすくない


子供の頃の恋愛と言えば、片思いで終わる物と相場が決まっている。決まっているといっても、何処の誰が決めたのかは知らないが。たぶんそれを決めたのは何処の誰でも無くて、数々の片思いを片思いのまま終わらせてきた人たち全員なんだと思う。自分は片思いで終わらせたことがない、全ての恋心を余すことなく成就させてきたという羨ましい人間もこの広い世の中には探せば居るのかもしれないが、恐らくかなりのマイノリティだろう。片思いで終わってしまう原因は片思いをした人の数だけ存在するが、多くの場合は好きになってしまったけどどうアプローチしたら良いかわからなかったりだとか、相手の気を引きたくて本心とは違う言動を取って嫌われてしまったりだとか、勇気が無くて声すら掛けられなかったりだとか、そんなところだろう。俗に言う若さゆえの過ちというやつ。でも、そんな不器用な思いを塵や埃のように募らせてきた人たちも成長し、経験を積むうちにコツを覚えていく。それは『絶対に相手を夢中にする方法』とかいう類の胡散臭い物だけではなく、駆け引きと呼ばれるやつをしてみたりだとか、それでも上手くいかないときは一思いに切り捨てて次に進んだりだとか。働くようになってから知ったが、存外大人は忙しい。仕事や生活の事が迫ってくると、子供時代のように『成就しないかもしれない恋愛』にばかり時間や労力を割く事が出来ない。だから大人になってから片思いという宙ぶらりんな状態を継続させ続ける事は、実は恋を実らせることよりもよっぽど困難な事なのかもしれない。そして、大人になってから片思いを長い間し続けられる人は、酷く純粋な人か、酷く不器用な人か、そのどっちもな人に違いない。僕の場合はどうなんだろう。ちゃんなら何て言うんだろう。聞く勇気はないのにそんなことを考える辺り、本当に自分はどうしようもない奴だと思っていると、奥の部屋から「お待たせー」と、満面の笑みを浮かべた制服姿のちゃんがひょいと顔を覗かせた。
「はーい、タオル。たぶん洗濯してるやつだから安心して。いつしたかはわかんないけど」
「ごめんね、ほんと」
「イワンは悪くないよ。いや、傘を忘れたのは悪いのかな。いつ如何なるアクシデントにも対応するのがヒーローだし?ね?」 なーんてね。冗談めかしてけらけら笑う声が交番の中で反響する。ドアの向こうの強い雨音なんてかき消すような、心地の良い声だった。

僕は子供とも大人ともまだ胸を張って言い切れない立場だが、確かな事がある。僕は片思いをしている。もう随分と長く。相手の女の子は今、仕事が終わって会社に戻る前に軽く走って行こうと思ったら突然降り出した雨に打たれて困惑していた所、偶々通りかかって雨宿りの場所を提供し、少し埃っぽいバスタオルを僕に差し出してくれたちゃんだ。何時から、だとか、何がきっかけで、とか、実はあまり「こう」と断定は出来ていない。自分の中でも。しかし、僕が彼女に好意を持っていて、出来るなら、許されるなら、今すぐにでも胸の内に秘めている思いを伝えてしまいたいと思い続けていることもまた、同様に確かだった。しかしそれは叶えられない望みというやつなのだ。うっかり吐露してしまいそうになったこともある。実の所。けど、どうにか未遂で食い止めている。そうまでして耐えている理由は実にシンプルで、彼女には恋人が居るからだ。「伝えるだけならタダじゃない?言っちゃいなさいよ」と、何かと世話を焼いて背中を押してくれる同僚にも言われた事があるが、それだけは出来ないと僕は思う。してはいけないと思う。スポーツやゲームと違って恋愛にルールが無い事は解っているが、僕の中でそれは反則と捉えられる行為だった。それに、彼女はきっと困ってしまうだろう。偶に遊びに行く、社会人になってから出来た友達として位置づけられているであろう僕からうっかり愛の告白なんか受けたりしたら。ちゃんは優しいから、短くお礼くらいは言ってくれるかもしれない。でもそれは建前で、本心では無い。それを最後に、僕とちゃんの友情は終わりを告げる。僕にはそんな哀しい未来しか描く事が出来なかった。だからひとつの結論に辿り着いた。君の心にもっと近づきたいと告げた言葉のせいでもっと遠くに離れるくらいだったら、今のこの距離感を保ち続けた方が幸せだと。いくら空っぽであっても。虚しくても。みじめでも。だから、僕は今日も、この瞬間も、足りない部分を補うように、生唾と一緒に言葉を飲み込んでいる。

「今日は?仕事帰り?」
タオルを取りに行ったついでに淹れてくれた暖かいお茶をテーブルに置きながら、ちゃんは訊く。 新緑が映える季節になったが、それでも雨が降れば肌寒い。有難いと素直に思った。
「うん……今朝シルバーで事故があって」
「ああ、ちらっと聞いた聞いた。ご苦労様」
「会社に戻って書類仕事片付けようと思ったんだけど、その前に走って行こうと思って。でもその途中で、」
「このザマってわけか」
湯気の立つマグカップにふうふうと息を吹きかけながら、ちゃんは意地悪そうに笑った。
「……そうです」
「かわいそうに」
かわいそう。確かにそうかもしれないと思った。踊る白の向こう。ほんのり眉を下げて微笑む姿を見て、僕は喉の奥が熱くなる。アイスを半分こした時。恋人と連れ立っている姿を見た時。夏の終わりにした線香花火に照らされた表情を盗み見た時。枯葉の上で困った風に笑う顔を見た時。意を決して指先に触れた時。何か、未だ僕が触れてはいけない事を苦しそうな笑顔の下に秘めているのに気づいた時。それはちゃんと出会ってから、幾度となく覚えた馴染み深い感覚。いつまでも覚えていたい瞬間、出来れば忘れてしまいたい瞬間。それらと共にやってくるヤツだ。それを洗い流すように、出されたお茶にゆっくり口をつけ、一緒に嚥下する。口の中に程よい苦みが広がった。
どうだろう。もしも、僕とちゃんの関係が、社会人になってから出来た友達同士ではなかったとしたら。関係性が、ずれていたとしたら。例えば、幼い頃近所に住んでた幼馴染とか。5年に一回顔を合わせるか合わせないかくらい遠い親戚とか。極端な話、親子とか。そうすれば、もっとちゃんと一緒に居る事が容易い物になったのではないか。ふとそんな事を思ったが、それじゃあ意味が無いんだという事にもすぐ気付いてしまう辺り、やはり僕は酷く純粋で、酷く不器用な人間なんだと思う。かわいそう。彼女が言うように、僕は予想外の雨に降られたことだけでなく、あらゆる意味でかわいそうな人間なのかもしれない。でもそんな風に思いたくなかった。思えなかった。かわいそうでも、惨めでも、報われなくても、痛くても、暖かくても、感じている間はちゃんの事を想えるのだから。これから先、この思いがどんな形に姿を変えていくかはわからないが、長年連れ添いすぎて自分の一部になっているような気さえするこの想いと、明日でも、明後日でも、数か月先でも、数十年後でも。最後まで添い遂げる覚悟は出来ていた。その日まで、彼女を想う事を怠ったりなんてしないと。かわいそうだなんて言わせないと。誰に言うでもなく、そんな誓いを立てる。
「私は別にいいけど、そろそろ仕事戻んなきゃだよね、イワンは。どうしようね。暫く止みそうにもないから、それ飲んだら傘持ってく?私2本持ってるから」
ちゃん、」
「なに?」
急に話を遮られ、目を丸くする。きれい。前に、明け方のダイナーで会ったちゃんは朝日を見てそう呟いていた。けど、僕にとっては朝日じゃ足りない、少ない。その澄んだ瞳を見て、心を満たせるのは、動かせるのは、やはりちゃんだけなんだと思った。
「……ありがと、ね」
ほら、足りなくない。少なくない。そうしてちゃんは、「どういたしまして?」と、ぎこちなく礼を告げる事が精いっぱいな今の僕にとっては十分すぎる程の笑みを今日も湛える。

title:たりないすくない(フジファブリック)
inspired by:バスを待っている僕ら(メレンゲ)