ガラス1枚隔てた向こうには宝石箱をひっくり返したような夜景が広がる。はずなのだが、昼過ぎから降り始めた雨が曇りガラスの役割を果たし、光は見事に滲んでいる。
写真を趣味とする者から言わせれば、カメラを持ってこなかったことを悔やむほどに何ともフォトジェニックなワンシーンなのだが、今はそんな呑気な事も言っていられない。
ゴンドラは時折強く吹く風に揺られながら、頂上目指してゆっくりと登っている最中だ。
今から自分がしようとしている事に対して少しでも花を添えて彩りたくて、たまたま通りすがったエリアにあった観覧車に乗ろうと言い出し、見るからに乗り気でない“彼女”を半ば引きずる様にして乗せたのは他でも無く自分自身だったが、やはり乗るべきでは無かったかもしれない。
柄にもなく、幾重にも重なる後悔に苛まれ、窓を伝う雫を目で追うのにも少しうんざりしてきた頃、軽く紙の擦れる音を捉えたライアンははっとして視線を向かい側の椅子に移す。
そこには至極退屈そうな顔をして、ハードカバーの本を読むの姿があった。
「えっ」
観覧車。恋人。ハードカバーの本(がページを捲る際にちらりと見えた題名から察するに恐らくミステリー小説)。
目の前に広がる光景のちぐはぐさにライアンが思わず声を上げると、はゴンドラの上昇速度の如く時間を掛けながら顔を上げ、「……何?」と不機嫌そうな声を出した。
「何……って、何。えっ、ちゃんここ何処かわかってる?」
「観覧車」
「いやわかってて読書ってどういう事!?景色見る所じゃねえの?ってかそれ何、何の本なんだよ一体」
ライアンが思わず身を乗り出すと、ギィと音を立ててゴンドラが揺れた。
時と共に動き続けているはずなのに、ゴンドラの動きも自分達を包む空間の時間も止まっているように感じる。
ややあって、は面倒くさそうに口を開いた。
「いや、私そもそも夜景とか観覧車とかそんなに興味ないし。それに加えてこの天気。ライアンこそほんとに外見た?何も見えないじゃない。あとこれはこないだバーナビーさんから借りた本。早く返さないといけないから。誰かさんのせいでね」
ライアンが畳みかけるようにした質問のひとつひとつをバットで打ち返すようにして答えるに内心で閉口する。
しかし、今は『うるさい、黙ってろ』と一蹴されなかっただけまだマシだと言えよう。
そんな風に自分に言い聞かせつつ、ライアンは長い長い溜息を吐きながらくしゃりと前髪をかき上げた。
数日前、ライアンはを怒らせた。そしてその怒りは現在進行形である。
今までも遅刻だとか怠惰だとか些細な理由でライアンがの眉間に皺を刻ませることは幾度となくあったものの、ここまでひとつの理由が怒りを長引かせているのはふたりが今のような関係になって初めての事だと言える。
その怒りの原因はライアンの仕事にあった。
「……ちゃん、まだ怒ってる?」
「何に?」
「ほら、こないだの」
「はっきり言って」
「……移籍の、件……」
絞り出すようにライアンが言うと、それに連動しての肩がぴくりと動く。
ああ、そうだ。やはり彼女は怒っている。その怒りのボルテージはおさまるどころか最高温度を保ったままなようだ。
疑い(プラス、落ち着いてると良いなというちょっとの願望)は確信と後悔に変わり、ライアンは舌を巻く。
頂上が近いのだろう。先程よりも揺れが大きくなったゴンドラの中をどんどん重い空気が満たしていく。
ふたりがシュテルンビルトにやって来て数か月。
今までのライアンの経歴からするとそれほど長い期間ではないが、華々しくデビューを飾ったり、大きな事件があったり、仕事上のコンビを解消したり、にも新しい友人が出来たり、それなりに色々な事があった。
“移籍の件”もそのうちのひとつだ。
ジャスティスデーの一件が収束し、壊された街の修復も少し落ち着いてきた頃。ライアンの元に海外の大富豪から直々のオファーがあった。
提示された金額は現在契約を結んでいるアポロンメディアの遥か上をいくものであり、条件も申し分ない。シュテルンビルトでやれるべきことは全てやったという自分なりの達成感を得ていた事もあり、ライアンは二つ返事でその日のうちに承諾をした。
移籍をする、即ち海外へ拠点を移すという事は幾度もやってきた事だ。と共に生活するようになってからも以前同じ事があり、今回で2度目になる。
故に、ライアンは完全に甘えてしまっていたのだ。
返事を出して、会社の関係者や同僚達にも諸々の報告をして帰宅し、一部始終を報告した後、から言われた一言でライアンは漸くそれを知る事となる。
『決める前に一言くらい言って欲しかった』
そう告げると、その夜、は寝室に逃げ込むようにしてライアンを全力で避けた。
翌朝いつものように会社での打ち合わせに遅れぬよう、仕方なくリビングで寝ていた所を叩き起こしてくれたものの、以来、ゴンドラの中と外界とを隔てるガラスのような、一枚分ほどの壁の存在を感じている。
あるのとないのとでは大違いな、驚異的な存在の壁を。
すぐにライアンは過去の行動と今回の件を照らし合わせながら、己の判断と決断を悔やんだ。
前にコンチネンタルエリアに居た頃、同じような話が今所属しているアポロンメディアから来たときに「一緒に連れて行って欲しい」と告げたのはの方だった。しかしその時は彼女の目の前で契約関係の書類に目を通し、最終的に移籍を決定した。
それに対し、今回の場合は完全にライアンの独断だった。
ライアンの中での存在をないがしろにしたわけではない。
寧ろその逆で、付き合う時間が長くなったことで彼女に寄せる信頼が強大な物となった結果、“甘え”が顔を覗かせてしまったのだ。
彼女ならば自分が自信を持って出した答え全てを“何も言わずとも”受け入れてくれるはずだ、と。
そうしてその甘えは今現在、ライアンの喉元をぎりぎりと締め付けている。
「ほんとにゴメンって」
「……」
「完全に俺が悪かった」
「……」
「これ、受け取って欲しいんだけど」
言って、ライアンはポケットにしまっていた小さな封筒をの前に差し出す。
気の抜ける音楽と共に流れる『間もなく頂上です』というアナウンスが虚しく響く。
ガラスには相変わらず涙のような雨粒がひっきりなしに伝っては地上へ落ちていく。
「……開ければいいの?」
考えるように少し間をおいた後、は本を傍らに置き、差し出された封筒をやや躊躇うように手に取った。
「うん」
用意していた物をが受け取ってくれた嬉しさ半分、今後の展開に対する不安半分。
自分の言動全てに自信を持つライアンがここまで気を揉む存在はきっと後にも先にもだけだろう。
それが単にマイナスな感情ではなく、大切な彼女に嫌われたくない、共に居たいという思いから来るものだということは、ライアンも解っている。だからここまで必死に仲直り計画を企てたのだ。
の白い指が封を開け、中からカードを取り出すのをライアンは固唾をのんで見守る。
取り出された長方形のカードには“Kiss my boots!”という箔押しの文字と、ライアンの直筆サインが書かれている。
一体何がしたいのだ。意図がわからず、不思議そうに首を傾げながら濡れた外界にカードを翳して見るに、ライアンは「こないだファンイベントで配ったんだよ、それ」と説明を加えた。
そして、
「…………あ」
煌びやかな表面と対象に、真っ白なカードの裏面の右下。そこに書かれた見慣れた手書きの文字を見たは短い声を上げる。
それから瞬きを短く3回し、もう一度表面を見てみたり裏面の文字をなぞってみたりを繰り返した後、「ふ」と口元を緩めた。
ゴンドラは頂上を遠に過ぎ、地上を目指し降下している。雨はまだまだ降り続く。しかし、ライアンの気分は少なくともここ数日の中では最高に高揚していて、晴れやかだった。
他に言葉も行動も要らない。
ライアンにとっては、が浮かべるその表情だけで充分だと思えた。
「……こういう大事なことは今度から口で言って。ね?」
念押しするように言われたの言葉に「……善処する」と返しながら、次々に溢れる感情を隠すようにしてライアンはいつの間にか低くなった世界にもう一度目をやる。
きっと数分後、地上で見る景色はこの閉ざされた空間の何千倍も何万倍も美しく感じるのだろう。
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Come with me.
title:Yes or No or Love(チャットモンチー)