午前7時の迷子たち


気に入っていたパン屋の入っていた場所に違う看板が掛かっているのを見つけて、一気に虚しくなってしまった。
見間違いかもと、まだ完全に認められていない気持ちを携えながら、通りを渡って真下から祈るように看板を見上げる。しかし、看板どころか窓から見える薄暗い店内も、何処からどう見ても私が記憶している物では無かった。
そこらの観光客に比べると長いけれど、それに準ずるくらいのごく短期間であったとはいえ、つい半年前まで暮らしていた街に知らん顔されたような気分だ。
なんだか気が滅入る。
物は試しに、再び戻って来たこの街に降り立った時、自分の隣で彼がしていたのと同じように、大きく深呼吸をして「ただいま」と呟いてみる。
人気のない通りの真ん中。当然返事は無い。それに、呟いたところで別に心が晴れるわけでも更に落ち込むわけでもなく、良くも悪くも現状は維持されたままだった。
しかしどうやらその場に置いてけぼりにされているのは私だけのようで、勝手に虚しさで心を満たしているうちに時は進み、陽が昇り始めたらしい。
競うように並び建つビルの合間。東の方の空が明るくなっているのを見て時計を確認しようとするが、ここで初めて腕時計も電話も持たずに出てきてしまったことに気が付いた。

昨晩はうまく眠れなかった。昨晩もと言うべきか。微睡みはしたものの、何度も目が覚めてしまった。以前からよくあったが、ここ最近更に増えてしまった気がする。
私によそよそしい顔をするこの街に連れ戻して来た張本人であるライアンは、昨日の深夜に発生した事故の処理に呼び出されたきり家に帰って来ていない。
うまく眠れないのにひとりで広い部屋に居るのは息が詰まる。結局私はそのまま気分転換に夜明け前の空気に当たろうかと、適当に身支度をして家を飛び出して来た。
最後にベッドの中でチェックしたSNSの情報によると、事故に付随して起こった火災も落ち着いたようだった。もしかするとそろそろ彼は家に帰っている頃かもしれない。薄ピンクに染まる空を見上げながら思ったが、他者や世界と繋がる術を家に忘れてきてしまったので真相はわからないままだった。
本来ならば忘れ物をしたことに対して焦るべきなのだろうが、寧ろその反対に、私は不思議と解放的になっていた。
鍵と財布はある。土地勘も、少々。家からそんなに離れた場所でもないので帰り道は問題ない。
ただ、空っぽの家に帰った彼の反応は多少気がかりではあったが。

余所余所しい通り沿いをあても無く、季節外れの蜃気楼のようにゆらゆら進んでいると、角に小さなカフェを見つけた。
まだ開店して間もないらしく、店内を見渡すと客はカウンター席で新聞を読んでいる老紳士がひとりだけ。彼のテーブルに置かれたカップから立つ湯気と味わい深い匂いに、つんとした態度を取るこの街に帰ってきて2週間。初めて自分の居場所を見つけたような気持ちになった。
私は気の向くままにテラス席に座り、ほどなくしてやって来た愛想の良い若い店員の女の子にブレンドコーヒーを注文する。
お腹も空いていたが、今は何かを胃袋に入れる気分になれなかった。

――おはようございます。時刻は6時30分。これから仕事に向かわれる方、仕事を終えて眠りにつこうとしている方、なんとなく眠れなくて朝を迎えてしまった方へ、シュテルンビルトの最新情報をお届けします。最初は昨晩ダウンタウン地区で起こった事故の情報ですが――

頬杖を付き、まだ人通りもまばらな通りを眺めつつ、店内から流れて来るラジオに耳を傾ける。
どうやら私が拾ったSNSの情報は正しく、ヒーローたちの活躍によって明け方には大方の処理が終わり、被害も最小限に留まったようだった。
それを聞き、私は細く長い溜息を吐く。安堵の色が込められたそれを吐くのも、気が付けば上手く寝付けないのと同じく、いつからかすっかり癖になっていた。
さっきより軽くなった気がする肩をぐるぐると回していると、注文したコーヒーが運ばれてきた。
「ごゆっくり」と笑う店員の女の子に軽く会釈をし、カップに触れる。冷たい指先が失った熱を徐々に取り戻してきた。
ライアンに付いて色々な場所を行ったり来たりしているが、どれだけ馴染みのない場所でも、この匂いと味と温度だけは(種類によって差はあれど)どこでも同じで安心する。
大袈裟だが、未だ余所者扱いをしてくる街で唯一私の事を理解してくれる存在のように感じ、泣きたくなった。

秋の気配に包まれた空気の中、暖を取るには丁度いいが、口を付けるには少し熱すぎる。
そんな難しい温度のコーヒーを眉間に皺を寄せて啜っていた時だった。
小道を挟んだ向かい側の歩道。そこに、(おそらく私ほどではないが)険しい顔をして歩くライアンを見つけた。
カップを口から離しながら「あっ」と短く声を上げる。それとほぼ同時だったと思う。彼は彼で私が送る視線に気付いたようで、声は聞こえなかったが同じく「あ」と発音したであろう口の形を私に晒していた。
走って通りを渡ってきた彼はそのままの勢いで店に入り、滑り込むように私の向かい側に座る。その慌ただしさに、老紳士が新聞を折りたたみながら怪訝な顔を浮かべているのが見えた。
「……居た!」
仕事の後故か、いつも完璧にセットされている髪は少し乱れていて、目元には疲れの色が浮かぶ。
先程と同じ店員の子に彼が何の迷いもなくミルク多めのカフェオレを頼むのを見届けてから、私はいつものように「お疲れ様」と声を掛けた。
すると、背もたれに肘を置き、苦いような重いような何とも言えない表情でわしゃわしゃと髪を掻いていたライアンは大きく息を吐いた。
「おう。……いや、じゃなくてさ!ちゃん何してたの。こんな朝早くから」
テーブルに身を乗り出さんばかりの気迫で私の顔を覗き込み、彼は問う。
その姿は控えめに言っても余裕がない。
本人曰く“星の数ほど居る”ファンの子にはまず見せない表情だった。恐らく指摘するとそれはそれは微妙な反応をするのだろうが。
「……散歩?」
「えっ、何で疑問形?」
「色々疑問に思いながら散歩してたから」
「なんだそれ」
ライアンは暫く湛えていたどこか張り詰めた表情を、ここで漸く崩してにやりと笑った。
そしてそれっきり何も言おうとせず、そのうち運ばれてきた熱々のカフェオレに砂糖を入れ、「やりすぎじゃない?」と思わず言いたくなるほど念入りにかき混ぜる。
ぐるぐると渦を描く彼の手を、柔らかい陽の光が何も言わず、包み込むように照らしていた。

彼には口にした言葉以外にも、私に言いたい事は沢山あったのだろうと心の中で推測をする。
ライアンとは何年にも渡る付き合いだ。共に過ごす月日の中、出会った頃と比べると関係も住む場所も何度か変わったし、嬉しい事も、それなりに苦しい事も経験した。そしてその都度、彼が人に誇りたがる事柄も、反対に必死に取り繕って隠そうとする事柄も知ってきた。
だからこそ、私が今日取った行動によって彼がどんな反応をするのかも当然予想はついていた。
けれども、彼は山盛りの砂糖がよくかき混ぜられたカフェオレと一緒に、言葉にならなかったその他諸々を全部飲み込む。
果たしてそれが彼にとっての幸せなのか、私にとっての幸せなのか。そのような事を今更考えるのは、ふたりの間では野暮だと言えた。
きっとそこらへんに転がっている言葉や感情、どれにも当てはまらない。
それは夜を徹して行った仕事終わりにわざわざ私を探しに来るようなライアンなりの優しさであり、それを心のどこかで密かに期待していたかもしれない私の甘えであり、お互いに真相や本心を決して晒さないふたり分の狡さなのだ。無理矢理言葉にするならば、そんなところだろう。

「ライアン」
沈黙を紛らわすため、ラジオから流れて来る最新のヒットチャートに耳を傾けるのにも飽きて、私は口を開く。ふたりの手元にそれぞれある白いカップ。その中の液体が残り少なくなった頃だった。
「なに?」
手元から顔を上げ、ライアンは真っ直ぐ私の顔を見据える。
雨上がりの水溜まりみたいに、光の中でライムグリーンの瞳が揺れていた。
「心配、した?」
私がわざとらしく小首を傾げて問うと、彼は少し驚いたように一瞬目を見開く。
それからどこか気まずそうに視線を泳がせ、首筋に手を当てた。
「するに決まってんじゃん。仕事終わって家帰ったら居ないんだもん。連絡も書置きも無し。電話も置いてあるし。失踪事件だろこんなの」
「ふふ。確かに?」
「いや、笑いごとじゃなく。もうちょい探して居なかったら交番に駆け込んでたぜ」
言いながらも、ライアンは何処か楽しそうだった。とても彼らしいな、とも思った。
「ごめんね」
「いーよ。ほんとに失踪したわけじゃないなら何でも」
私の心ここにあらずなトーンの謝罪に対し、彼は探るでもなく追及するでもなく、ただ困ったように笑い、僅かに残っていたカフェオレを飲み干して、音を立ててカップを置く。
ざらついたカップの底にあるのは夢とか希望とか愛ではない。でもそれと同等かそれ以上に尊い何か。彼の中に在る、柔らかくて確かな感情を具現化した物のように私は思えた。 ラジオから流れて来るどんな最新の音楽より心躍らされる、カップふたつを挟んだ距離からしか捉える事の出来ない美しい景色。
コーヒーと同じく、それはいつでもどんな場所でも私の事を受け入れてくれる存在なのだ。この距離が保たれる限り、変わらずに。
「あのさ、」
息を胸いっぱい吸い込んで、私は言ってみる。大きな欠伸をしていた彼は「ん?」と鼻から抜けるような声を出した。
「私もいつだってライアンのこと、心配してるから」
告げると、鼻の奥がつんとした。それは多分、先程と比べて客が増えて来た店内から漂うコーヒーの匂いのせいだけではない。
それよりも確実で、それでいて脆い何かのせいだろう。これに名前を付けるのは、もうちょっと先にしようと思う。焦る事は無い。夜は明けたばかりなのだから。

「……知ってるっつーの」

相変わらず程よい距離の向こう側で、洗いたての朝のようにライアンは笑った。