ノーネーム


「女の子に花の名前を教わると、男はその花を見る度に一生その子の事を思い出しちゃうらしいっす」
「……は?」
自分でも笑っちゃうくらい間抜けな声が出たので、苦し紛れにめいっぱい息を吸い込んでみる。草の匂いがした。というか、草の匂いしかしなかった。ミドルノートはたぶん、土の匂い。
仕事に行く日よりも早く起きて、会社の最寄から2駅先にある大きな公園の入り口で待ち合わせをした私と左近は、彼が持ってきた大きな大きなブルーシートの真ん中で、それぞれ体育座りをしている。
2,30人は座れるであろう広さの真ん中に2人きりで居ると、無人島で遭難したような気持ちになる。
しかしここは無人島などではない。頭上からはヤシの木的な植物ではなく、満開の桜たちが誇らしそうな顔でふたりを見下ろしていた。

ここ3,4年、社内の恒例行事と化したお花見会。その年によってそれぞれ担当が割り振られるのだが、一番重要とも言える場所取り係は、何故か第1回目からずっと左近が担っている。(以前その理由を聞いたことがあったが「知らない方が良い事ってあるっしょ?」と目を逸らされながら語っていたので追及することをやめた)
去年は酒類の買い出しに回っていた私は、幸か不幸か、今年あみだくじで見事左近と同じ、いわくつき疑惑のある係を引き当ててしまった。
早起きをすればいいだけで、あとは宴会の開始時間になるまでずっと待っていればいいだけ。事前準備が必要な発注班や体力勝負の買い出し班に比べれば楽勝ではないか!そう思っていたのだが、ただ待つ事は想像以上に退屈だった。
モバイルバッテリーを用意したとは言え、あまりスマホを弄りすぎてしまうと夕方まで持たない。幼馴染で五月蠅い上司の半兵衛に「待ってる間に読む?」と言って渡された小難しそうな推理小説も、当然読む気にならず、持ってきた荷物のどこかで眠っている。そうなると、あとは左近と雑談をするしか時間を潰す手段はない。
そういう結論に至った私は最近の仕事についてや半兵衛の悪口、安くて美味しいランチが食べられる店の情報など、様々な事を左近と話していた。そして目まぐるしく変わる話題はやがて、左近の先程の発言へと至る。そこまでの経緯は正直、覚えていない。

素っ頓狂としか形容できない私の声に苦笑いを浮かべながら、左近はゆっくりと続けた。
「こないだ観た映画で言ってて。そういや俺、前にさんに花の名前教えてもらったことあったなって。さっきここに来る前通った花壇に咲いてた花を見て思い出したんです」
「……そんなことあった?」
「ありましたよお」
まさか忘れちゃったんスか!?と大袈裟なジェスチャー付きで驚く左近に、私はただ眉を寄せる。
それは別に、彼の挙動に鬱陶しさを感じたを感じたからではない。本当に身に覚えが無かったからだった。
左近とは、彼が入社してきた数年前からの付き合いになる。
同僚の三成が(広義で)可愛がっている後輩ということで、ちょくちょく仕事で関わる事も、プライベートで遊ぶ事もあったから、そんな出来事があっても可笑しくはない。
しかし、思い出せない。全く思い出せないのだ。そして彼が教わった事を覚えていて、私が教えた事を忘れているというのは何だか少し悔しい。上手く表現出来ないが、心に浮かぶモヤモヤを表すにはその言葉が一番適していると思った。
「まー俺も聞いた花は覚えてても、肝心の花の名前は忘れちゃったんだけど」
「うっわあー、ひど」
「教えたの忘れた人がそれ言います?」
「教えてもらったのに忘れた人の方がヤバいって」
「それに関してはなんも言えねえ」
はは、と空を仰ぎ、左近は乾いた笑い声を上げた。パステル色の空が眩しい。雲はあるが、雨の心配はなさそうだ。
時間が経つにつれ、周りに人が増えて来た。私たちが来たときは辺り一面緑色だったのに、気が付けば様々な色のビニールシートがあちこちに敷かれている。
それはまるで、大きな花畑のようにも見えた。

「それってさあ、私たちの場合はどうなるんだろうね」
『状況はどう?』という半兵衛からの連絡に『問題無し』と返しながら私は口を開く。すると今度は左近の方が「へ?」と間の抜けた声を上げたので、私は思わず吹き出した。
「だから、『名前を聞いたけど忘れちゃった人』と、『名前を教えた事を忘れちゃった人』の場合。それでも『名前を聞いた事』は一生思い出すのかな。……教えた方は既に忘れてるわけだけど」
頭に浮かんだ疑問を実際声に出してみると、妙ちくりんななぞなぞのようにも思えた。 それに対して何か気の利いた答えを出そうとしているのだろう。左近は胡坐をかき、腕を組みながらうーんと深く唸る。
やや期待に満ちた視線など送ってみるが、彼はそれに気づくと、くしゃりと顔を歪めた。

「……わかんねえけど、少なくとも俺は覚えてましたよ。あと多分、一生忘れないと思う。さんに花の名前を聞いたことは」

歯切れの悪い言葉なはずなのに、妙に芯のある声だった。
一生忘れないと思う。
そんな、口の中が砂糖でざらつきそうな事をさらりと言ってのける左近はやはり一筋縄ではいかないのかもしれない。図らずも、少し熱を帯びてしまった頬を隠すように手のひらで覆い、私は声を上げる。
「え、何その自信。こっわ」
「そんな事言わないでくださいよお」
身を乗り出して嘆く姿に小さく溜息を吐く。
手元でスマホが震える。もうすぐ買い出し班が到着し始める頃だ。
この地獄のような天国のような左近との時間に終わりが見えてきた事に、どうしたことか、私は寂しさに似た感情を抱いていたのは絶対口外してはならない。
そう心の中で誓いを立て、全てを誤魔化す代わりに「お手洗い行ってくる」と立ち上がると、左近は短い返事に続けて言った。

さん、帰りにまた花の名前教えてくださいね。今度こそ覚えてるんで。一生忘れないんで」

それは今日一番と言えるくらい、真剣なまなざしとともに告げられた。
覚悟とか、決意とか。そんな類の感情が織り交ぜられている様にも思える。私の考え過ぎだろうか。考えすぎだと良いのだけど。
「えー……?どうしよっかな」
スニーカーを履きながら私ははぐらかすように答える。ちらりと振り返れば、左近は仰々しく正座なんかしちゃって「この通り」と、満面の笑みで手を合わせていた。
「……覚えてたらね」
捨て台詞同然の言葉を吐き、私は逃げるようにトイレに足を進めた。
左近は一体何の花の名前を知りたいのだろう。私が知っている花なのだから、それほど難しくはないはずだが。ついでに左近が見たであろう花壇を見て予習してこなくては。 ちゃんと教えられるように。今度は教えた事を忘れてしまわないように。
春の日差しに溶かされかけた脳みそに、「はい!」という左近の明るい声がいつまでも響いていた。