相思相愛の理想形


他のどんなものにも例え難い。しゃき、しゃき、という軽い割りに重さを持った音が静かな家の中に響く。
ふと目が合った、鏡の中に映る人物。音を生み出している張本人の“彼”はどこか冴えない顔をしていて、イワンは慌てて視線を手元の鋏の先へと逸らした。

イワンは人間を見るのが好きだ。映画の中の気取ったスターが演じる人間も好きだが、街ですれ違う、名前も知らない人々が生きている姿を見るのが、とても。
仕事に活かせるからという理由だけではない。自分ではない人の人生を垣間見るのは、単純に面白いと思っている。
しかし同じ人間であっても、自分という人間に関してはそれが当てはまらない。
自分の事は自分が一番理解しているからこそ、向き合うのが後ろめたく思え、少しだけ怖いのだ。
根っからのネガティブ思考も時間や経験、その他諸々のおかげでヒーローを始めた頃に比べたら大分マシになってきた。が、嘘を吐かない鏡が飾る事も隠す事もなく現実を告げるのに真っ直ぐ向き合う事を、イワンは未だに苦手としている。
歯を磨く際、身支度をする際。やむを得ず鏡を見る際も、視線は無意識のうちに自分自身の眼から外してしまう。これは中々抜けない癖のようなものだった。

しゃきしゃき、しゃき。新聞紙を広げた自宅の洗面台の前。人知れず覚えた気まずさをかき消すようにわざとらしく音を立てていると、様子を見に来たが開いていたドアの隙間からひょっこりと顔を出す。
その姿をイワンが鏡越しに捉えると、彼女は「後ろ、手伝おうか?」とそれまでイワンが漂わせていたどんよりした空気を払拭するような、明るい口調で声を掛けた。
「ううん、平気。ありがとう」
手を止め鋏を下ろし、ドアの方を振り返りながらイワンが返す。それに対しては何も言わずふわりと笑うと、少し何かを考える素振りを見せた後、イワンの隣に歩みを進め、鏡の前に並び立った。

こうして自宅で髪を切る行為は、イワンの人生の中では何度も繰り返していることだ。 最初にそうしたのはいつだったか明確には思い出せないが、少なくともと出会う前も、今のような関係になる前も、一緒に暮らすようになってからもずっと続けている。
そんな行為を今のようにが時折覗きに来るのは、珍しい事ではない。一種の社交辞令的に手伝いを申し出て来る事も、だ。
しかし、大抵の場合はイワンが断ると、少し観察をしてから別室へとすぐ去って行く。
故に、今彼女が取っている行動は、イワンが予想していない類のものだった。

「おや」とイワンは眉を一瞬微かに寄せる。一方では固く唇を結んだまま、相変わらず何かを考えるようにじっと鏡の中のイワンの姿を見ていた。
反射する熱い視線。耐え切れず、イワンはから距離を取るように、半歩横にずれる。髪の毛が散らばる新聞紙がくしゃりと音を立てた。
恐らく夕飯の用意をしていたのだろう。からは、イワンが良く知る甘い花のようないつもの香りに混ざって、どこか香ばしい匂いもした。

「……理想の相手ってさ、鏡の中に居るって言うよね」
それはあまりにも唐突で、どこか他人行儀な言葉だった。
貝のように閉ざしていた口を急に開けたに「え?」と、イワンは息が多く混じった声を返す。
彼女の視線の先には、並び立つふたりが映し出された鏡。
イワンが一番よく知る人間と、イワンが今自分の次くらいによく知る(と、言いたい)女性。
の目にも恐らく自分と全く同じものが映っているのだろうが、本来そんな余地もないこの世の常識さえ疑ってしまうような、そんな不思議な空気を今のは醸し出していた。
暫し、沈黙が流れる。
何か続けて言うべきか、彼女の言葉の先を待つべきか。
イワンが思い悩んでいると、は身に付けるアクセサリーを選ぶ時みたいに丁寧に話し始めた。
「自分の理想のパートナーって、自分自身に限りなく近い人らしいの。毎朝鏡を見て、もし今映ってる自分が『そんなに好きじゃないなー』って思うなら、それは『好き』って思えるようになる努力が必要ってことなんだって。昔、誰かが言ってたなって。鏡見てたら思い出してさ」
そう言ってやや照れくさそうにしているは、先程までとは違い、イワンが良く知る彼女だった。
何があっても、どんな時も、明るく前向きに物事を捉える、イワンと正反対の一番近い世界で生きている。 そんな彼女を横目で見て、イワンは漸く得られた安心感と共に「ふうん」と相槌を打つ。
軽い響きのそれだったが、頭の中で反響するの言葉はなんだか妙に心に重く圧し掛かるとイワンは思った。
「イワンはどう?理想の相手が映ってる?」
言って、はふたりが映る鏡を指差し、微笑む。そうして気付くのだ。
――は楽しんでいる、と。
鏡の中、冴えない顔に苦々しい表情を乗せた自分の顔を見ながら、イワンは言う。
「……、それさ、今の僕の反応を見た上で訊いてる?」
「あはは、もちろん」
「…………」
「怒った?」
「怒ってはない。けど複雑」
言いながらも、イワンは先程のの言葉を思い出し、自分に当てはめてみる。

鏡の中の自分が好きか嫌いか。そう問われれば、イワンは恐らく後者だ。少なくとも好きな自分から意図的に目を逸らすなんてことはしないはずだから。
すると、つまりそれは理想の相手――イワンにとってはであって欲しいのだが――に近づく為の努力が必要という事になる。が語る理論上では。
確かに、他人を愛するにはまず自分を愛せだなんていう言葉もある。恋愛についてのアドバイスをしたがる同僚も、似たような事を前に言っていた気がする。
自分を愛せ。
それは外面は良くても、なんと難しく、無慈悲で無責任な言葉だろうか。
イワンがどう頑張っても悪い方にしか展開し得ない思考回路に文字通り頭を抱えそうになっていると、はイワンの右手から鋏をそっと抜き取り、襟足近くに刃先を当てた。

「……まあ、イワンがイワンを愛せなくても、イワンの分まで私が愛してあげるから。大丈夫だよ」

しゃき。しゃき。自分で切っている時よりも小さく繊細な音を立てながらはイワンの髪を切っていく。
なされるがままになりながら、イワンが「……え?」と声を漏らせば、は至極楽し気に笑いながら「そこは『ありがとう』でいいの」と宣うのだった。
しゃき。しゃきしゃき。
心地いい音を聞きながら数回瞬きをしたのち、イワンは再び鏡を見る。そして、恐る恐る自分と眼を合わせてみる。

冴えない。情けない。甲斐性が無い。

どれにも当てはまるその顔は、それでもどこか満ち足りた微笑みを浮かべていた。
「……。ありがとう?」
鏡の中では満足そうな表情を湛え、「どういたしまして」とイワンに鋏を返す。
すっきりとした襟足を撫でられると、イワンは彼女の匂いに包まれるような幸福感を覚えた。

「それに、私もまだまだ理想に近づく努力が必要だし?」

イワンの背中に付いた髪の毛を払いながらは笑い、再び鏡を覗き込む。
そこには理想的な歪さのふたりが寄り添うように映し出されていた。