Heavenly days


開けた窓から流れ込む風がカーテンを揺らす。
先日、無事に第一志望校の合格通知を受け取った私が久しぶりに筧の部屋に足を踏み入れると、2月に入った頃からじわりじわりと段ボールの中に詰められていっては姿を消した筧の私物はついにローテーブルの上に乗っかった数冊の本とベッドの隅に投げ置かれているバッグを残すのみとなっていた。
元々自分の部屋と比べると常に整理され、散らかった様子も無かった部屋だが、それでもやはり何というか、そう、寂しい。
いや、うん。わかっていた。覚悟もしていた。
去年の秋の初め。「卒業したらあっちに行こうと思う」と、何時だってマジな表情を更に硬くして、筧が私に告げた日から。
ううん、実際はそれ以前から何となく気づいてはいたから、もっと前からと言った方が正しいだろう。
でも今は敢えてこう言わせて欲しい。

「これは一体どういう事?」
「受験勉強のしすぎで頭おかしくなったか」

一世一代、私渾身のボケ。なのに情緒もへったくれも無く、平坦な口調で返された言葉に「失礼な!」と声を荒げ、許可も取らず頭から勢いよくベッドにダイブする。YES,ヤケクソ。
ぎし。よく知る匂いのする黒いフレームのベッドは苦しそうな声を上げた。
これの本来の所有者は今、私の後ろでものすごく不機嫌な顔をしているような気がする。
だが私の顔はふかふかの枕に埋められているので推測することしか出来ない。
試しに、プールを端に向かって泳ぐように、足をバタバタ動かしてみる。
脳裏には魚さながらに、季節問わず水の中を気持ちよさそうに泳ぐ私と筧、共通の友人の姿が浮かんでいた。

「やめろ、埃が立つ」

苛々した口調で筧は言う。けれども未だ一歩たりとも譲る気のない私は「やめない」と返す。
我ながら強情だとは思う。正直なところ、枕に顔を埋めたままバタバタしているのでめちゃくちゃ息苦しいとも。
「やめろ」「やめない」「やめろ」「やめない」、壊れたレコーダーみたいな幾度かの稚拙極まりない言葉による攻防戦の後、私が沈んでいるベッドに新たな重みが加わる気配がした。
おや、と思うのも束の間。そのまま両肩に力が加わり、気が付いた時、視界にはこれまで背を向けていたはずの白い天井と筧の顔が出現していた。
頬に垂れる長い前髪がうざったい。
口角を微かに上げ、逆光の中勝ち誇った顔をする筧に文字通り手足の自由を奪われた私は、漸くここで観念することにし、おとなしく瞬き以外の動きを停止した。
同時に潮が引くように、込められていた力が優しく緩められていくのを感じて、胸の奥が熱くなった。

高校から巨深に入った私が筧と同じクラスになって約3年。初めて行われた席替えで隣同士になって2年と10ヶ月。そのうち「2日に一度しか来ないマネージャーの代わりをして欲しい」と水町に頼まれてから2年と8ヶ月。筧が探しているという、中学時代に出会った“彼”の話を最初に聞かされてから2年と6ヶ月。そんな彼と念願叶って再会できたことを共に喜んでから2年と2ヶ月。そしてそうこうしてるうちに、私と筧が“今みたいな関係”になって2年ジャスト。
そこから嬉しいことも楽しいことも悔しいことも共有しあった毎日は、明日筧が海の向こうに行ってしまうことにより終焉を迎える。
未だに実感はない。それもそうだ。だってこの3年間、一緒に居るのが当たり前だったから。
多分こういうのは、居なくなってから初めて何か感じるのだろう。今までに経験したことがないので推測することしか出来ないのだが、恐らくは。
穴が開くほど目の前の筧の顔を見つめながら考えていると、彼は不思議そうに首を傾けて「?」と私の名を呼んだ。
私はそれに答える代わりに、彼の首の後ろにそっと両腕を回す。
上から下へ、すっかり慣れた手つきで柔らかな毛並みに沿って後頭部を撫でると、それを引き金にして筧の唇が私のものに重なった。
私が記憶する中で、一番長いキスだった。

「……私から連絡なんてしてやんないから」

名残惜しそうに熱が離れて再び筧の瞳に自分の姿が映るのを確認し、私は口を開く。
それは決意か、皮肉か。どちらに取られても良いと思った。実際フィフティフィフティだったから。

「そうか」
「メールも電話も」
「ん」
「よっぽどの事が無い限りね」
「そりゃどんな事だろうな。楽しみだ」
「明日も見送りになんて行ってやんない」
がそれで良いなら俺は何も言わねえけどよ」
「うそ。やっぱ行く。絶対行ってやる」
「ああ」

流れ星みたいに、筧の瞳がきらりと光った。窓から差し込み始めた西日が反射したのかもしれない。見間違いかも。けれど、私は咄嗟に回したまま痺れ始めている両腕に渾身の力を込め、筧の頭を引き寄せた。

「ちょ、、苦し、」
「我慢してよ。今日くらい」

情けなく、震えた声が喉の奥から出ると同時に視界が滲む。
許してよ、今日くらい。
声にならない私の心の声はそのまま暖かく色のない液体となり、私の目から頬を伝い、流れ落ちていく。
普段神様なんて信じないけど、もしも居るならお願い。
今夜中に、どうか私の涙が枯れ果てますように。
心の中、必死で無茶なお願いをする私の耳元で囁かれた「……ありがとな」という筧の声は、春に似た音がした。