お砂糖ひとさじ


あれはいつだったか。そう、確かシロツメクサの花冠を作ってもらった時も持ってきていた目の粗いバスケット。
当時よりやや控えめな草の匂いがする同じ公園の、大体同じ場所にレジャーシートを広げて座る僕の隣に置かれたそれの中には、クリームやらカラフルな飾りやらフルーツやらで可愛らしくデコレーションされたカップケーキが覗いている。そして数個あるうちのひとつは二口だけ齧られ、紙皿の上に虚しく転がっていた。

日中はまだ汗ばむ事も多いが、朝晩は肌寒さを感じる日も増え、少しずつ季節が進む気配がする今日この頃。
澄んだ青空の下。お馴染みのバスケットを挟んだ左隣でちゃんはかれこれ体感30分近くどんよりとした空気を纏いながら膝を抱え、俯いている。
あくまでも僕の体感なので実際は30分より短いかもしれないし、長いかもしれないのだが、まあ時間はあまり関係ないから今は置いておこう。

「あの、ちゃん」
「……何」
「そろそろ顔、上げて?」
「やだ」

意を決して声を掛けたが見事に断られてしまった。
どうしたものか。成す術の無くなってしまった僕は試しに彼女に倣って膝を抱えてみる。
嘗ては主に仕事関連で上手くいかないことがあったり、主にちゃん関連で後から考えたら恥ずかしくて仕方のない行動をしてしまったりした時によくこの体勢を取っていたなと思い出し、懐かしくなる。
最近もそういう事が完全に無くなったわけではないけど、懐かしいと感じられるレベルまで来ていることに少しの嬉しさを覚えた。
いや、今はそんな呑気な事を言ってられる状況でもないのだが。
意図せずとも視界に入ってくる、今のこの最高に居心地の悪い空気を作り上げたすべての元凶である齧りかけのカップケーキが、僕を嫌でも現実に連れ戻す。

今日、僕はまたひとつ年を重ねた。
もう誕生日を盛大に祝うような年齢ではないし、元々祝われたとしても「準備大変だったんだろうな」とか「お返し、忘れないようにしなきゃ」とか、喜んで見せるよりも先に余計な事をあれこれ考えてしまう性質なので、今年も他の日と変わらず、慎ましく静かに過ごそうと思っていた。
が、今年は偶々ちゃんと休みが重なっていたことが判明し、「じゃあちょっとだけお祝いしようよ。イワン派手に祝われるの嫌だろうから。こういうのはやっとくべきだよ?人生の節目として」と彼女に半ば強引に誘われたのだ。
去年はまだこんな風に当日一緒に祝うような関係ではなかったし、初めてのことに戸惑いながらも「何か準備とか要らない?」と聞いたところ、呆れた様子で「誕生日の本人が何か準備するとか聞いた事ないんだど」と返されてしまったのは、今思い返すと恥ずかしい。それこそ、膝を抱える程度には。
そして、そんなこんなで穏やかに今日の日を迎えたのだが、公園に着いてレジャーシートを広げ、「なんか懐かしいね」と平和に笑いあったりなんかしつつ彼女がわざわざ僕の為に今朝焼いたというカップケーキを一口齧ったところで状況は一転する。
理由は至ってシンプルだった。

とてつもなく塩辛かったのだ。こんな可愛い見た目をしたケーキが。

「……あり得ないでしょ、いくら料理あんまり得意じゃないからって砂糖と塩間違える?普通。そんな漫画みたいなミス、ホントにする人見たことある?無いでしょ?ヤバいよ私。っていうか何で味見しなかったんだろう、ホント。そこで気づいてたら何か代わりに買ってくるとか出来たのに」

相変わらず膝を抱え俯いたままちゃんは早口で言う。
どちらかと言うと彼女はいつも前向きで、どちらかと言うと僕はいつも後ろ向き。いつもと立場が逆転しているようで落ち着かなさに拍車がかかる。調子が狂う。しかし何故だろう。膝を抱えることが少なくなった件同様、ほんの少しだけ、嬉しさを覚えるのだ。
それは多分、普段あまり見ることが出来ないちゃんの表情や反応を見られたからだというのはなんとなく理解しているが、同時に申し訳なさや罪悪感のような物もふつふつと湧いてくる。
でも、今日くらいは許されたい。
誕生日という年に一度の特別な日にかこつけて、僕はらしくないことを考えてみる。

「誰だって生きてれば失敗するよ」

自分にも言い聞かせるように僕は言った。
完璧な人間などいない。失敗して、後悔してそうやって生きてきたし、多分これから先もずっとそうやって生きていかなきゃいけないんだ。僕だって、彼女だって。他のみんなだって。
自分の過去を振り返りながらちゃんの肩に手を伸ばす。触れると同時にちゃんは顔を上げ、何か言いたげに僕を見つめた後「……でも別にそれが今日じゃなくてもいいじゃん」と唇を尖らせた。
うーん、これはまいった。かなり手ごわい。
またしても跳ね返されてしまった言葉に動きを止め、閉口する。
ちゃんの瞳に映る自分の目が泳いでいるのを見て、自分自身がとても情けなくなった。

いつも励まされる事の方が圧倒的に多い性格上、こういう時に人に何と声を掛けたらいいのか全く予想がつかない。アイデアがない。励ましたい対象が自分が大切にしたい人間であるなら猶更だ。
幸い僕の周りにはちゃんや気が利きすぎてお節介とも言える頼れる同僚が沢山いる。その人たちはいつも適格で、時にユニークなアドバイスをくれたが、それはもしかすると物凄くエネルギーが要る大変な事なんじゃなかろうか。当然、性格上そういうのが好きというのもあるだろうが。なんにせよ尊敬に値する。
心の中で感謝をしつつ、今年はもう少し彼女らの手を煩わせないようしっかり生きようと心に抱負を掲げ、

ちゃんが良ければ来年、また作ってよ。来年が難しいなら再来年でも、5年先でも、10年先でも」

アドバイスではなく、提案をした。
頼りない今の僕に出来るのはその位だと思った。
視線と視線が絡み合ったまま、ちゃんはぱちぱちと瞬きを繰り返す。
妙なことを言ったつもりは微塵も無かったが、彼女は僕の目を見つめたまま、不思議そうに首を傾げ、それから何かを考えるように澄んだ空を見る。やがて暫くして再び僕の顔を見たかと思えば、頬はしょっぱいカップケーキに乗っている苺に似た色に染まっていた。

「……。……イワン」

声が微かに震えているが、何故ちゃんがそんな反応をするのか見当がつかない。
何事かと思っていると、ちゃんは「よいしょ」という小さな掛け声と共に長らく膝を抱えていた腕を解き、僕の方に体を向け、正座をした。
何やらただ事ではない空気だ。鏡のように、彼女に倣って僕も正座をしながら「えっ?なに?」と問いかけに応じた。
ちゃんはやや躊躇いがちに口を開く。その表情は戸惑いの色を含みながらも、どこか楽し気な雰囲気もあった。

「それってさ、なんかプロポーズみたいじゃない?」
「…………ッはっ!?」

思いもよらぬ指摘と気になりすぎるキーワードに声が思いっきり裏返る。そして先ほどの自分の発言を頭の中で数度リプレイし、確かにそう聞こえるかもしれないと気づき、思わず口元を覆い目を背けた。
心臓の音が耳元で大音量で鳴る。彼女にも、この公園に居る人みんなにも聞こえてるんじゃないかというほどに。
幸か不幸かすっかりいつもの状況に戻ってきた今、ちゃんはそっと僕の手を取り「来年は期待してて」と、僕が今日一番見たかった笑顔を浮かべるのだった。