早朝。薄いうろこのような雲が空全体を覆っている。微かに透ける太陽の光がちらちらと揺らめいているのを見て、深い海の底から水面を見上げるとこんな風に見えるのだろうかと空想する。
閑静な住宅街であるこの近辺には背の高い建物が少ない分、空の広さが際立ち、余計に想像力を掻き立てられた。
日中はまだ汗ばむ陽気の日が続くものの、朝晩の空気はひと月前と比べるとかなり冷えるようになった。毎日欠かさず同じ時間に走っているのは勿論トレーニングの一環としてだが、季節の変化がよくわかるというおまけも付いてきて好い。
土手に咲く赤い花。大きな公園の近くに落ちる丸い木の実。家から一番近い角を曲がるときにふわりと香る甘さ。
家を出た時と比べるとすれ違う人も大分増えてきたが、それでもまだまだ静かな町の中に居ると、まるでそれらひとつひとつを独占しているかのような気持ちになる。
すっかり走り慣れたコースを今日も完走し、自宅の共同玄関の前で呼吸を整えながら計測していた時間を確認する。うん、悪くはない。まずまずだ。
それなりの満足感を胸に抱き、一際深く息を吸い込んだついでに自室のベランダを見上げる。
空っぽの物干し竿の向こう側。半分ほど開いたドアの隙間からレースのカーテンが緩やかな風に揺られ、踊るように顔を覗かせているのが見えた。
俺と、未だにあのカーテンの向こうにある夢の世界に居るであろう彼女――との付き合いは高校生の時からになる。
最初は偶々隣の席になったクラスメイト。次に時々部活に顔を出して手伝ってくれる親しい友人。それからいつしか自分の人生に於いて、アメフト同様に無くてはならない存在になって早数年。
その数年間のうちにふたりは高校生から住む場所を変え、大学生になったが、今もこうして変わらず一番近くに居てくれるのは素直に嬉しい。普段あまりこんな言葉は使わないが、幸福で幸運だとも思う。
この世には不変的な物は少なく、不確定な事がとても多い。人の心も、今肌で感じてきた季節だってそうだ。常に変わりゆく物に囲まれる中、数年間変わらぬ彼女との関係はある意味異質な物なのかもしれない。
それでもまだ暫くは、いや、今後もずっと不変の物にしていこうという強い意志が自分の中には確かにある。
当然、それは自分だけの気持ちでは成り立たないのは解っている。
が、の気持ちを自分に向けさせ続けられるならば、努力は厭わない。自分に出来る事ならばどんなことでもしていくつもりだ。
これは恐らく俺の意地でもあり、決意でもあり、願いでもある。
数年かけて花弁みたいに幾重にも重なった複雑な思いを携え、なるべく音を立てぬよう細心の注意を払って玄関のドアを開けて家の中に入る。
「ただいま」
予想通り、返事は無い。けれども帰宅した俺を無言で迎え入れてくれた、ここを出た時と殆ど変わらぬ薄暗さと、玄関に揃えられた自分の物ではない白いスニーカー。それらから、の存在を把握する。
昨晩寝る前にしていた彼女の話によると、今日は朝から講義が入っていた筈。そろそろ起こしても決して早すぎるという事はなさそうだ。
行儀よく並ぶ白の隣にランニングシューズを揃え、部屋の電気は消したままベッドへ歩み寄り、細い寝息を立てるを見下ろす。
換気の為にベランダのドアを開けて出たので、部屋の中も外ほどではないが若干肌寒さを感じる。薄手の布団に包まり、壁に向いて小さく丸くなっているの姿を見て、そろそろ羽毛布団を出しても良い頃か。いや、まずはその前に先延ばしにしている衣替えをしなくては等と考えを巡らせた。
「」
ベッドに腰掛けながら名前を呼ぶ。一人分の体重が余計に乗ったことによりマットレスはぎしと音を立てて沈んだが、相変わらず反応は無い。
の額まですっぽりと覆っていた布団をほんの少し下にずらし、顔に掛かる髪の毛を横に分けてやる。本来起こすことが目的なので別に気にする必要は無いのだが、それでもどうしたことか、自然と指先が繊細な動きになってしまうのが他でもない自分の事ながら可笑しい。
瞼は依然としてぴったりとくっついたままだ。
夢でも見ているのだろうか。うっすら微笑んでいるようにも見える横顔に音を立てぬよう、俺はそっと唇を寄せる。
前髪、こめかみ、耳、頬、それから首筋。
と出会って以降、胸の奥から湧いてくるようになった柔らかく暖かい感情を注ぐように順番に丁寧になぞっていると、やがて花が開くような速度で瞼が開いた。
それを合図に俺は体勢を変え、彼女の横に沿うように寝そべり顔を覗き込む。薄闇の中で光る瞳はまだぼんやりとしていた。
「おはよう、」
軽い挨拶と共に今度は短く唇を重ねる。彼女は寝ていたので知らないだろうが、家を出る時にも一度したので今日2回目のキスだった。音もなく静かに離し、こつんと鼻先を当ててから距離を取る。
するとここで徐々に覚醒してきたらしいは数回の瞬きと長めの深呼吸の後、「……大和」と起き抜け特有の掠れた声で俺の名前を呼んだ。
「うん?」
「……大和、外の匂いがする」
「外から帰ってきたからね」
一瞬、汗臭いという文句を言われるのかと思いドキリとした。だが、もぞもぞと布団から出した腕を俺の首に絡めて楽し気に微笑むの様子から察するに、そのつもりはないらしい。
俺は彼女の背中に腕を回し、抱き合ったままゆっくり起こしてベッドの上で向かい合う。
の肩越しに揺れるカーテンを見ていると、そのまま彼女は首を伸ばして俺の肩口に顎を預けた。
「あっ、おい。二度寝する気か?」
「……しないよ~……」
「今ちょっと悩んだだろ」
「ちょっとだけね」
顔をずらして伏せ、今度は俺の胸に顔を埋めながらがころころ笑った。
の好きなところは沢山ある。
今の笑い声。朝があまり強くないところ。寝起きの掠れた低い声。子猫みたいな体温。艶のある髪。気の強さを語るような目。
共に過ごす時間が増えた分だけ、取り巻く世界が変わりゆく分だけ、好きなところも増えていく。
挙げられるだけ挙げろと言われれば、無限に挙げる事ができる。
昨日のも好きだし、明日のも絶対に好きになる自信がある。しかし今の彼女をこの腕に抱けるのは、嬉しいのか哀しいのか、今この瞬間の自分だけなのだ。
そう考えると、まるで走り切った後のように心拍数が上がり、自然と表情が緩んでしまう。
規則正しく吸っては吐き出す息が直接響いてきて、心臓辺りに心地の良い暖かさを産む。それを真正面から受け止めながら、やはりこの手は決して離しはしないと一番近い所に居る彼女にも知られぬよう、俺は密かに誓いを立てた。
「……今日も寒いよ。羽織る物持ってきてた?」
「夏前に置いてったカーディガンがあると思う。クローゼットの中に」
「ああ、あれか。珈琲淹れておくから支度して」
「うん。ありがと」
彼女の言葉を契機に、回していた腕を名残惜しみながら解いて先にベッドから降りる。キッチンへと向かいながらもう一度振り返ると、天井に届きそうなほど大きく伸びをしているの姿が目に入った。
さあ、また一日が始まる。俺も彼女もまだ知らない世界が。いつものインスタントコーヒーを淹れながら、今日は彼女のどんな所を好きになるのだろうかと俺は期待に胸を膨らませる。
title:Water Lily Flower(フジファブリック)