軋んだ音と共に古びた窓を開け、外の空気を目いっぱい吸い込む。地面の様子から察するに、少し前まで降っていたであろう雨のせいか、肺を満たすそれはまだほんのりと湿っていた。お世辞にも気持ちいいとは言い難いシチュエーションだが、それでも掃除は定期的にしているはずなのに何故だか常に埃っぽい気がするこの部屋の中に比べれば天国なので、細かい事には目を瞑る。
淀んだ空気。机の上に作られた書類の山。あらゆる意味で目を背けたくなる現実たちから逃れるようにして視線を地面から空へと移せば、薄い雲と雲の切れ間にひっかき傷のような光の線を見つけた。
三日月。心の中で呟くと、それに重なるようにして「好い三日月だ」という落ち着いた声が静かな部屋に響き、はっとする。
てっきり、もう自分以外の職員は誰も居ないと思っていた。
驚きながら声の主を辿ると、そこには隣の窓から空を見る、ここ最近私と同様に残業続きで、いつも以上に草臥れて見える同僚のリーマスの姿があった。
「……好い、三日月ですね」
特に考えもなく、私はただ彼の言葉をそのまま繰り返す。何がそんなに面白かったのだろう。彼は私の間抜けな顔を視界の隅で捉えた後、「ふふ」と心地の良い軽い笑い声をあげた。
彼、リーマス・ルーピンは同じ職場で毎日顔を合わせている年上の同僚である。同僚と言っても私たちが所属する研究室は基本的に単独で業務にあたる事が多く、仕事で関わる事は殆ど無い。故に一年以上同じ場所に勤めながらも、お互いが担当する業務に関する情報以外は、名前と出身校程度の知識しか持たない。まるで近くに居るように見えるのに実際は遠くに居る、月と星々のような距離感だ。
しかし私は彼を取り巻く木漏れ日のような穏やかな空気や、卒なく業務をこなすようで少し抜けている所がある点などに、密かに興味を抱いている。恋心とかそういうふわふわした類の物ではなく、あくまでも好奇心や探求心があるという意味で、だ。
そんな興味の対象になっている彼が今隣に居る。決して職員数は多くない職場だが、こうしてふたりきりになるのは珍しい。正直なところ酷く落ち着かない。何か会話を続けようにも当然共通の話題などあるわけでもなく、彼の笑い声が消えた後にはさも当然のような顔で再び静寂が訪れた。
彼は相変わらず窓越しに、空に浮かぶ三日月を見ている。脇目もふらず、真っ直ぐと。他にするべき事も話すべき事も思いつかないので、私もそれに倣ってみる。よくよく見ると、空が笑っているみたいだと思った。その時、
「君は、月が好きかい?」
と、彼は唐突に質問を寄越した。
「へっ?」
我ながら、とてつもなく間抜けな声が出てしまったと思った。
内心赤面し、最後の砦である外面はどうにかこうにか取り繕っていたつもりだが、唇の端を微かに持ち上げる彼の反応を見る限り、うっかり顔にも動揺の色が出ていたのかもしれない。
「月は、好き?」
リーマスは笑いを堪えるかのように、一瞬口元を手で押さえてから再び尋ねる。ああ、多分やらかしてしまったんだな、という恥じらいと後悔で、私の心は満たされていく。
まずい、変な人だと思われた。でも、藪から棒によくわからない質問をするのも同じ位変な人だから、どうか今日のところはおあいこにして欲しい。
相手に告げる勇気もない言い訳を浮かべながら、私は口を開く。
「好きか嫌いかで言えば……まあ、好き、ですかね。空に浮かんでればつい目で追っちゃうし。今日みたいに」
深く考えた事も無かったけど。
私の答えに、彼は少しの間を置いた後、何か納得したように小さく「そうか」と呟いた。それから
「お茶でも飲むかい?淹れるよ」と告げ、手際よく茶器を用意し始める。その姿はどこか酷く寂しそうでもあり、しかし奇妙なことに、同時に嬉しそうにも感じられた。
古来より月は様々な逸話や伝説を持つ。否、勝手に持たされてきたと言うべきか。月からしてみれば迷惑な話だろうと思う。しかし、自らの運命を悲観するでも歓喜するでもなく、月は今宵もただ静かにそこに在る。哀しい程に美しい。そんな事を、彼が淹れてくれた熱い紅茶を啜りながら考える。彼の私物であろう。綺麗に磨き上げられた白いティーカップから顔を上げると、彼は窓枠に軽く腰掛け、相変わらず空を見ながらゆったりとした所作でカップに口を付けていた。
音もなく、ただ静かにそこに在る。彼もまた、月のような存在だと私はこの時初めて思った。
「……ところでリーマスは?月が好きなんですか?」
今頭に浮かんだ考えを口にする代わりに、彼の質問の意図も、私の答えに対する反応も一切理解出来なかった私は今度は反対に問いかけてみる。
先ほども言った通り、私は彼に興味がある。今宵は滅多にない、せっかくの機会だ。こちらから質問をすれば多少彼の持つ感情のうち、何か一つくらいは解るのではないかと思った。解るかもという希望よりも、解りたいという願望の方が強そうだけれど、この際それはどうでもいい。
すると、私が質問することを予想していなかったであろう彼は月の表面みたいな色の目を丸くした後、
「好きでもあるし、嫌いでもある。かな」
と、それはそれは優しい声色で言った。
「ええ?何それ。なぞなぞ?」
なんということ。彼を理解したいと思ってしたはずの質問だったが、余計にわからない事が増えてしまった。うんざりして言えば、彼は相変わらず飄々とした態度で「まあ、そういう類のものかな」と目を細める。そして、
「満月は好かない。だけど、今日みたいな三日月や半月は好きだね、私は。不完全な方が丁度いい」
と続け、ことりとカップをテーブルに置いた。
不完全。
彼の言葉を頭の中でリフレインさせる。開けている窓から強い風が入り込み、彼の鳶色の髪も揺らしていった。
端が欠けた古くから使っているカップ。ちょっと不細工な猫。傷のついた革張りの鞄や毛玉のある
セーター。完璧を求める者が居る一方で、世の中には、そのように『不完全な物』を愛好する者が一定数居るという。恐らく彼もそのひとりなのだろう。私も、その良さは解らなくはない。
完璧は完全だけど、窮屈だから。
彼のどこか飄々とした振る舞いは、もしかするとそういう趣味嗜好から来ているのかもしれない。
一方的にではあるものの、今日初めてほんの少しだけ彼の事がわかった気がして、私はちょっとだけ嬉しくなる。もっと知りたくなる。もっと見ていたくなる。緩む口元を誤魔化すように、カップに残っている紅茶の残りを一気に飲み干せば、胸の奥がじんわりと暖かくなるようだった。
「……でも、私はまん丸な月もなかなか好いと思いますよ。あれはあれで不完全っていうか。満月の日は空に穴が空いてるみたいで面白いし。ね?」
お茶、ごちそうさまでした。礼を告げるついでに、不完全と聞いてぽっと頭に浮かんだことを何気なく言い残し、私は帰る支度に取り掛かる。
すっかり遅くなってしまった。仕事の続きはまた明日やろう。お茶をごちそうになったお礼に片付けようと、彼が置いたカップに手を伸ばす。すると、彼は「……穴?」と形の良い眉を微かに寄せた。
「はい。穴」
「……。それは……」
口をつぐむ。何か、言葉を探るような、慎重に選んでいるような様子だった。
「はい?」
杖を振りカップを濯ぎながら、彼を振り返る。不完全を愛する謎多き彼は薄明りの中、やがて何かひとつの結論を見つけたらしい。寄せていた眉をもとの位置に戻し、ふっ、と柔らかく微笑んだ。
「いいや。なかなかユニークな発想をする人だね、君は」
果たして私は褒められた、のだろうか。馬鹿にされた気もするけど。今一つ釈然としなかったが、まあ今日のところは良しとする。今宵の素晴らしき、不完全な月に免じて。
さて、私も帰るとしよう。独り言のように呟いて、彼は自分の机へと歩み寄る。月さながら、神秘的な空気を纏うその背中は、やはりいつまでも見ていたい気持にさせた。
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Everyone is a moon,
and has a dark side which he never shows to anybody.
Mark Twain