地球から月までの距離は約38万キロメートルらしい。
と言われてもどのくらい遠いのかいまいちピンとこない。アポロ11号で行くと4日。飛行機で行くと16日。車だと200日。歩くと15年かかるという。なるほど、ここまで言われたらなんとなく「遠いんだな」ということがわかる。しかし、それでもなんだか現実味に欠けるし、行く大変さも想像し辛い。
それもそうだ。だって行った事がないんだから。月に。
なにもこれに限った話じゃなく、人は実際に自分が経験して初めて何かを知るという事がとても多い。裏を返せば、想像はできても経験しなければ一生本質はわからぬままなのだ。
月がどれだけ遠いのか本当の意味で知ってる人は、嘗て多くの人々が見守る中、月面に降り立ち歴史に名を遺したほんの一握りの人だけ。あとはどれだけ天文学に精通していようが、偉そうに小難しい理論を並べていようが、実際に行った事がないという点では私たち一般人と同じくくりになるのである。
「宇宙飛行士になろうかなぁ」
音を立て、背表紙がほんのり焼けた子供向けの宇宙科学図鑑を閉じながら呟く。疑問符が付いてるような付いてないような、曖昧な語尾。
そのまま膝の上に乗っけて表紙の地球の写真を指先でくるくる撫でていると、図鑑の持ち主である筧は「何でまた」といたく真面目な声色で律儀に返した。
埃っぽい図鑑を元あった本棚の一番下に戻し、視線をテーブルに広げられたノートに写す。
試験勉強の息抜き(現実逃避とも言う)に筧が幼少期に読んでいたと思われる図鑑を開いたら、思いのほか面白くてつい読みふけってしまった。
うーん、そろそろ再開するかあ。筧もなんか怖い顔してるし。いや、それはいつものことか。気乗りはしないが、渋々ノートの脇に転がしていたシャーペンを取る。
呪文みたいな書きかけの数式を薄目で眺め、それでもやっぱりやる気が出なくて、「どうやったら宇宙飛行士になれるのかな」と再度口を開けば、「知らないで言ってたのかよ」と今度は呆れたようなツッコミが入れられるのだった。
「こうなったら私はどうにかして筧より遠い場所に行ってやろうかと思って」
「はぁ?」
筧の相槌に力がこもる。また馬鹿なこと言って。そんな風に思われているのだろう。長年の付き合いによりすべて理解しているけど、それを無視して私は続ける。
「知ってる?月って地球から38万キロも離れてんだってさ」
「だから何なんだよ」
「だからさ、筧がアメリカ行くなら私はそれより遠い場所に行ってやろうかなって」
気のせいなのはわかる。それでも一瞬、この部屋だけ時間が止まったような感じがした。頬が一瞬冷たくなるような、瞬きをするのすら煩わしくなるような、呼吸がし辛いような。そんな不思議な空気に包まれた。
カチコチと、時計の秒針がやたらうるさい。心臓の音も。鼓膜の近くで流れる血液の音も。それらに負けじと「はー」と大きめの声を上げながら息を吐きつつ、筧はどんな顔をしているのだろうかという考えが頭をよぎる。でも、見るのはやめておいた。理由はちゃんと言えないけど、そうしておくのが正解だと強く確信していたからだ。
筧が卒業後の進路希望を私に話してきてから約2ヶ月。季節は変わり、それに伴い私たちが着る制服も変わり、朝晩は肌寒く感じる日も増えて来た。
その時から変わらない物はと言えば筧の決心と私たちの関係性くらい。あとは、「行っておいでよお」と言いつつも、あの日あの時以来奥深くで魚の小骨みたいなものが引っかかり続ける私の心。
そんなものを抱えているとは筧には当然伝えていないしこの先も伝えるつもりもないが、決して無視できない事象だ。我ながらとてもめんどくさいなと思う。しかし、消し去りたいとは思わないのだ。消えて欲しいとも思えないのだ。
この酷く複雑で痛々しい気持ちは、月に行った人しか知らない苦労と同じく、他の誰にも知り得ない、私だけの特別な物だから。
「アメリカ、かあー」
大きく伸びをして、崩していた足を抱えて座る。それと同時に筧が小さく息を吐くのが聞こえる。
ちらりと横目で盗み見れば、筧は頬杖をついたまま指先でくるくるとペンを弄んでいた。ノートを見る限り、彼は彼で勉強の方はあまり捗っていない様子だ。
「日本からアメリカまでって何キロくらいあるの?」
テーブルに身を乗り出し、尋ねる。筧は少し照れたように視線を窓の方に泳がせている。
「知らねえよ」
「飛行機でどのくらいかかる?」
「12…13時間くらいか?」
「ふぅん。遠いね」
「……そうだな」
筧が深く重々しく頷いた。その何気ない所作が何故か私には妙に神々しく映った。闇に浮かぶ満月のよう。いや、それは流石に大げさだとは思うけど。でもそれに限りなく等しいと感じる。
果たして月がどのくらい遠いのか、38万キロメートルの距離を旅するのがどのくらい大変なのか、アメリカがどのくらい遠いのか、筧の決心がどれほど固いのか、私にはわからない。だって行ったことないし、私は筧ではないから。
だが、そんな中でもひとつだけ、今の私にもはっきりと言えることがあった。
「でも、月よりは遠くない」
だから、大丈夫だよ。
誰でもなく自分に言い聞かせるようにして、私は呟く。それを聞いた筧は一瞬目を丸くしたかと思えば数度瞬きをし、小さく笑った。
大丈夫。
それが指すのは私に対することなのか、筧に対することなのか。真相はまだわからない。実際にその日が来て体験したとて、わかる日が来るのかも怪しい。
けれども、月より近くて遠い場所に行こうとする彼の未来が月明かりくらい優しいものであることを、今の私はただ願う他ないのだ。
title:スペースシャトル・ララバイ(UNISON SQUARE GARDEN)