君の瞳に恋してない


ビルとビルの合間から嫌になるほど綺麗な朝日が昇り始めていた。くああ、と思わず溢れた大きな欠伸を申し訳程度に手で覆いながら、はドアに手を掛ける。深い赤で塗られた少しだけ重たい木戸。それとは対照的な乾いた音のベルと共に、カウンターの向こうから「おはようございまーす!」という店番の女の子の元気の良い声が聞こえて、は無理矢理作り上げた笑顔を返した。通りに面した店名がでかでかと書かれた窓の外側から陽の光が差し込み、疲労感でいっぱいの頭と体に惜しみなく突き刺さる。ビジネス街の一角に位置するダイナーも、日曜の早朝は流石に客入りは疎らだった。金庫みたいな形のエスプレッソマシーンがよく見えるカウンター席は空っぽで、窓際のボックス席には背筋を伸ばして新聞を読む紳士がひとりと、化粧室の前の席には頬杖をつきながらうとうとしている派手なメイクの女性客。店内に流れる古いのか新しいのかも分からない、耳あたりの良いポップスがよく聞こえた。少し腰を屈め、カウンター横のピカピカに磨き上げられたショーケースに並ぶパンたちをひとつひとつ時間を掛けながらじっくり見る。狐色のシナモンロール。本物の三日月みたいなクロワッサン。パニエたっぷりのドレスみたいなカップケーキ。どれもこれも食欲をそそられる色をしていたが、その中にのお目当ての物は無かった。
「あの、サンドイッチありますか?スモークサーモンのやつ」
「ごめんなさい、今日はまだ並んでないの」
「ですよね、」
だってこんなに朝早いんだもん。の問いかけに対し、申し訳なさそうにしている店員に気にしないで、と伝えたくて手をひらひらと振り、「……じゃあこれ下さい。あと、カフェオレ」と視界の隅にあったメニューを咄嗟に指差す。てん、と自分の人差し指が乗る『パンケーキ バニラアイス添え』の文字の横にある、ポップな見た目の食べ物の写真を見て少しだけ後悔したが、空っぽの胃袋を満たしてくれるならスモークサーモンのサンドイッチでもパンケーキバニラアイス添えでもこの際何でもいい。は半ば自棄になったようにそう思いながら、革製のショルダーバッグから財布を出した。丁度の金額を受け取ると、席で待っててと言って笑い、店員は背を向ける。短く礼を言って、は窓に面した2人掛けの席へと移動する。空いている席に荷物を置きながら、窓ガラスに映った、嘗て“彼”が「似合う」と言ってくれたピンストライプのシャツワンピースの上に乗っかる覇気のない顔を見て思わず苦笑した。

昨晩、は恋人と別れた。一言で言って良い物ではないかもしれないが、それを承知の上で表現するならば、が振られたのだ。ふたりの関係は2年ほど続いたが、最後の3ヵ月はお互いに気持ちが離れている事がなんとなく分かっていた為、交際期間に勘定していいものかどうか、には分からなかった。しかしその問題についてはもう思案する必要も無い。相手がの元を去っていったという事実はどう足掻いても覆されることは無いのだから。 別れ話と呼ぶにはあまりにも幼稚なやり取りを終えた後からの、の記憶は断片的であやふやだった。冷静になって思い返すと、冷めきっていたとは言え、かなり動揺していたのだとは思う。深夜、ひりひりする心を抱えながら彼の家を逃げるように出て、近くにある公園に行った。途中で歩き疲れてベンチに座り、今別に考える必要も無いずっとずっと先の未来の事についてあれこれ考えを巡らせる事にした。その後、また歩いたり、途中また座ったり、飲み物を買ったり、それを飲んだり、街灯に群がる羽虫を見たり。色々な事をした気もするし、何もしていない気もした。そうしてつい10分程前、勤務先近くの通りでふと濃紺とオレンジ色が混ざる空を見上げたとき、「自分はお腹が空いている」という事に気づき、吸い込まれるようにしてダイナーに入り、今に至る。よく昼食を買いに来るこの店も、時間帯が変わるとまるで知らない顔をされているようだ。と、は昨晩の事について逡巡している間にさっきの店員が持ってきてくれた、白い湯気の立つカフェオレを啜りながら考える。思わず顔を顰めたくなるような熱さのそれも、一体どうしたことか、抜け殻の様になっている今の自分には丁度いいとは思った。 ナイフとフォークを手に取ってパンケーキを切り、口へ運ぶ。香りが鼻から抜けていくような甘さだったが、悪くはない。パンケーキの熱により少し溶けかけたアイスが、まるで正気を失いかけている自分に『おい、目をさませ!』と言っているかのように感じた。

半分ほど食べた頃。ふと手を止め、エナメルパンプスの踵部分をコツコツと打ち合わせて鳴らしながら、何気なく視線を外に向ける。すると、横断歩道の向こう側にイワンの姿を見つけた。がおや、と目を丸くする間に、イワンはいつものように猫背気味な上半身を湯気のようにゆらゆら揺らしながら歩いて道を横切り、大きな欠伸をした。そして窓の近くを通り、深い赤で塗られた木戸を開ける。店内に響く乾いた音。それから自分の時同様、元気よく挨拶をする店員に会釈をし、ショーケースに並ぶパンをじっくり見てから、「サンドイッチありますか。スモークサーモンのやつ」と尋ねた。まるでスポーツの試合の名場面をリプレイで見ているようだった。笑いを堪え切れなかったが吹き出すと、ここで漸くイワンはの存在に気付いたようで、数秒動きを止める。そして、何やら少し焦った表情を浮かべた後、オレンジジュースだけを頼んでの座るテーブルに向かってきた。
「……美味しそうだね、それ」
「お腹空いちゃって」
向かいの席に置いていた荷物を膝の上に移動させながら、は答える。「ありがとう」と、どこか落ち着かない雰囲気を醸し出しながらイワンは空いた席に座り、ちうと小さな音を立ててジュースを一口飲む。その姿を見て、は『悪くはない』ではなく、『良いな』と思った。

イワンとは、(の元恋人に比べると)比較的新しい友人だった。ひょんなことから知り合って、仲良くなった。色々な話をして、時々出かけて、彼の仕事についても知った。それまで知り合ったどんな人間――友人とも、恋人とも違うタイプであるイワンと居る時間は、とても楽しかった。誰かと一緒に居る時、時には意図的に、時には無自覚に、人は誰しも“その人と一緒に居る為だけの自分”を作り出すものだとは思っている。少なくとも、“彼”の前ではそうだった気がする。だから、こんなに冷めたつもりでいても動揺するのだ。胸の奥が痛いのだ。自分の一部分をべりべりと無理矢理剥がされたような感覚に陥るのだ、と。一方で、イワンの前だとそうではない。当然、内に秘めている事もある。についてイワンがまだ知らない事もあるし、がイワンについてまだ知らない事も沢山あるだろう。しかし、こんな自分の大して好きでもない服で自分を飾らず、気取らず、そのままの自分で向き合える、そんな存在。引き剥がされることの無い、離れていっても近付きすぎても痛みの無い、鏡のような。それがきっと、“彼”も気に入らなかったのだろう。どこかでそう感じていたのだろう。感じさせていたのだろう。どろどろと溶けていくアイスを眺めながら、は再び、昨晩の事を思い出す。
ちゃん?」
「ああ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「そっか」
困ったように微笑んでそう言ったきり、イワンは何も言わず、頬杖をついて窓の外に登る陽の光を眺めていた。テーブルいっぱいに広がる金色がふたりを包む。それは、その姿はとても、
「……きれい」
「えっ?」
思わず口から零れ出た、の言葉にイワンはぴくりと眉の端を震わせる。それに対し、「んーん、何でもないっ」と、店員に向けたのと同じ、その場凌ぎの笑顔を向け、食べかけだったパンケーキを押し込むように口に入れる。手元に運ばれてきた時の面影はもう無い程に形状を変えたアイスクリームをたっぷりつけて。悪くはない。けど、やはり、自分には少し甘すぎるかもしれない。パンケーキの焦げた部分くらいの苦い感情を、は“鏡”に向ける。目の前で、水晶みたいな色の瞳が小さく揺れた。
と思っていたら、
「……え?」
ナイフを持つの手に、冷めたカフェオレのような、程よい暖かさが重なった。
「……何でもない」
優しく自分の左手での小指を包み、少しだけ眩しそうにイワンは笑った。ばらばらになったパーツを壊さぬよう拾い集めるように。或いは、海の中に落ちた人を引っ張り上げるように。繊細で力強く。白い頬が赤く染まる。見る事は出来ないが、恐らく自分も同じ顔をしているのだろう。何故なら、鏡だから。
「……そっ、か」
何年も言葉を発していなかった人のように、の声は掠れていた。そして気が付くと、重ねられていた手は再びジュースの入ったグラスに添えられていた。幻だったのかもしれない。微かに残る、指先の感覚も。ひりひりした痛みを上書きするように塗りたくられた、ずしんとした胸の違和感も、全て。否、幻であって欲しい。お願いだから。そう心の中で神様に縋るように繰り返すの前で、紫の瞳は現実だと言わんばかりに優しく揺れていた。

title:君の瞳に恋してない(UNISON SQUARE GARDEN)