Day Dripper

Friday


タイムカードを切り「お先に失礼します」と、まだ残って作業をする数名の職員たちに一礼する。
待ちに待った週末を迎え、既に退社した人たちもまだ残ってる人たちも心なしかそわそわと落ち着きなく、皆一様にどこか浮き足立っているようだった。
そんな彼らを他人事のように(現にそうなのだが)視界の隅で捉えながら私は職場を後にする。
しかしその足取りは、決して軽くはなかった。

結局あの後、ライアンから連絡はなかった。
私が通話を遮断させる寸前、電話の向こうで何かを言おうとしていたのは実は私の勘違いだったのかもしれない。
この状況ではそう思わざるを得なかった。

実際の所、彼からの連絡を期待していなかったと言えば嘘になる。
夕方辺りになればメールの1つくらい寄越すのではないかと踏んでいたが、その予想は見事に外れ、私はまた新たな虚無感に似た感情に支配された。
それだけならまだ良かったが、心のどこかで「期待していた事実」を認めなくないと思っている意地っ張りな自分も同時に居合わせているから非常に厄介である。
更に、自分から電話を切っておきながら会いたい、声が聞きたいと思ってしまう、そんな身勝手にも程がある考えにも呆れる。
そんなこんなで、私の胸の中は相も変わらずミルクティー色の不穏な曇り空が広がっていた。

辛い。寂しい。会いたい。
目を潤ませて、甘い声で、愛らしく。
――もしも、私がそう言えるような器用で計算高い女だったら、こんな思いをすることはなかったのだろうか。
しかしそんなこと、自分にできるはずがないし、ライアンも私のこの妙にシャイで意地っ張りで不器用すぎる面倒くさい性格を深く理解した上で接してくれている。
が、知らず知らずのうちに少しばかり彼に頼りすぎていたのかもしれない。
本当は、彼を遠ざけていた1番の原因はそんな自分にあったのではないだろうか。

手が届くところに居るはずなのに、彼に手が届かない。
それどころか、手が届きそうになかった所に居た時の方が、彼に触れることが出来ていた。そんなようにも思える。
こんなことなら――

(駄目だ、考えすぎだ。)
心の奥底で湧きかけた不穏な気持ちに気づき、私はハッと息を呑む。
ふるふると悪い考えを払拭するように頭を振り顔を上げれば、驚くことに、いつの間にか自分の部屋のドアの前に立っていた。 必死で思い返してみても職場を出てから家に辿り着くまでの記憶が殆どない。
ぼんやりとここまで歩いて来てよく事故に遭わなかったものだ。
決して褒められたことではないが妙に感心してしまった。

もたもたと鍵を開け家の中に入ると、それまでも鉛のように重かった身体が、まるで全身に鎧を纏ってるかのように感じられた。
お腹は空いていたが胃に何かを入れる気には到底なれず、私も相当参ってるな、と力なく笑いながらリビングへ向かい、電気も点けないままソファに横になる。
程よい堅さで自分を受け入れるクッションに、自然と頬が緩んだ。

ああ、まずい。せめて着替えないと。でも、ちょっとだけなら――ほんの一瞬、私の中で睡眠を受け入れる自分と拒否する自分が小さな戦いを繰り広げたが、あっさりと決着がつき、意識が何処か深い処へと沈んでいくのを頭の片隅で感じていた。

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どのくらい時間が経っただろうか。

額の辺りに触れる、自分の物ではない熱と人の気配を不審に思い、更に同時に「帰宅後着替えすらしないでそのまま寝てしまった」という罪悪感にもさいなまれつつ、私が水面から顔を出すように意識を浮上させる。
その時、

「おはよ」

起き抜けには眩しすぎる笑顔を湛えた、今1番私が会いたくて、しかし会いたくなかった人――ライアンの姿が視界に飛び込んできた。

「――っ、な」

何故。何故だ。
何故ここに、私の家にいるのか。
寝起きで頭が回らない上に、一瞬で答えが出せる筈の無い問題に正面からぶつかり、私は驚きのあまり声を失う。
すると「ちゃん、せめて鍵はかけてからお昼寝しような」とライアンは私の前髪を梳いていた手をどかし、暢気に言った。
「…なんで、」
やっとの思いで声を絞り出し、全ての疑問をその3文字に乗せ、床に座り込みテレビを見始めたライアンにぶつけると、彼はいたって真面目な表情でこちらを振り返りながら口を開いた。
「えー?…なんかちゃん昨日、様子がおかしかったから、顔見に来た」
「……おかしい…?」
「うん。ちゃんのことなら何でも知ってるしわかるんだぜ、俺」
ライアンは子供のように、誇らしそうに胸を張って見せる。
「……」
「ホントは昨日来たかったんだけどさあ~どうしても外せない仕事があって、今日になっちゃった。ごめんな?」
でも、元気そうでよかった。
そう言うとライアン少しだけ照れくさそうな笑みを浮かべ、再び視線をテレビへと移した。

私は心底、驚いていた。
昨日の朝交わした、あの短いやりとりの中で彼は全てを察したというのか。
元々他人の声色や表情の変化に敏感である節はあったが――否、彼の言葉をそのまま受け止め、自惚れだと非難されることを承知の上で思い切って言えば、“私だから”わかった。そういうこと、なのだろうか。
単に昨日の私の態度が“わかりやすかった”だけなのかもしれないが…それでも、私のことを考えていてくれた。
頭の片隅に置いていてくれた。
その事実だけで、今の私にとっては充分だった。

柄にもなくそんなことを考えていると、なんだか妙にくすぐったくなる。
私は特に意味もないのに、もぞもぞと足先を摺り合わせた。

それから私は暫くぼうっとテレビに夢中になっている彼の背中を眺めていたが、やがて身体をゆっくりと起こし、そのまま彼の右隣へとそっと腰を下ろす。
私の左手の中指が彼の右手を掠めると、さも当然のようにそっと指を絡ませてきて、私は頬を緩ませた。

2人の間に言葉は無い。
部屋に響くのは、テレビから聞こえる音声だけ。
しかし不思議なことに、まるで繋がれた指から流れ込むかのように、“彼”が流れ込み私を満たす。

(遠くなんて、なかった。)

潮が引いていくように消えゆく、昨日から抱えていた一切の濁った感情や考えを見送りながら、私はふっと溜息のような笑みを漏らした。
つくづく思う。彼には敵わない、と。

どれだけ遠くても、どれだけ離れていても、過ごす時間や空間が違っても、私がどれだけ深い処を彷徨っていたとしても。
どんなときでも彼は、力強く引っ張り上げてくれる。今までも、これからも。
それを、1番大切なことを私は忘れていた。
彼が言うとおり、私はもう彼のマネージャーではない。
恋人、なのだ。
会社でも事件現場でもない、もっともっと彼に近いところ。そこが、今の私の居場所。
ただそこで、彼を信じて待っていれば良い。
――でも、待つだけではなく、たまにはその場所から、少しだけ背伸びをして自分から彼に歩み寄るのも悪くないかもしれない。
すぐには無理でも、少しずつ。
これも私だけに許された特権、なのだから。

「ライアン、」
「んー?」

繋がれた手にぎゅっと力を入れ呼びかけると、ライアンは不思議そうな顔でテレビから視線を外し、私の顔を覗き込んだ。

「…好き」

消え入りそうな声で、しかし私にとっては精一杯の大きさでぽつりと呟くと、ライアンはへにゃりと表情を崩し、それはそれは満足そうに笑った。

「知ってた」

Fin.
title:Day Dripper(フジファブリック)